● 名誉毀損について 名誉毀損は、それが論評の域を脱するか否かが判断の分かれめとなる。 具体的な判例等によれば 「表現が執拗であるかどうか」「他に相手を論評できる方法があるのに、必要以上の表現をしているかどうか」が判断基準となる。「この言葉を使ってはダメである」という用語があるわけではない。 とはいうものの、「この言葉は名誉毀損である」という可能性が極めて高い言葉は存在する。それらの言葉は表現が激烈で、そのためその言葉を使用する時には、文章自体も必要以上の表現となってしまう確率が高いからである。 2ちゃんねるの動物病院裁判の判例でいえば、以下の表現が名誉毀損にあたるとされた。 |
「ブラックリスト」 「過剰診療,誤診,詐欺,知ったかぶり」 「えげつない病院」 「ヤブ(やぶ)医者」 「精神異常」 「精神病院に通っている」 「動物実験はやめて下さい。」 「テンパー」 「責任感のかけらも無い」 「不潔」 「氏ね(死ねという意味)」 「被害者友の会」 「腐敗臭」 「ホント酷い所だ」 「ずる賢い」 「臭い」 |
また、東京ニフティ訴訟では、以下の文言が名誉毀損発言とされた。 |
「あの女は乞食なみじゃ。」 「あの女の表の顔と裏の顔が明らかになる。そう,寄生虫的な逆差別女の思想的限界が。」 「あの女は弱いのではなく,弱いふりをして,根性がひん曲がっている・・。あれでは離婚になるでしょう」 「XXXは何者か?やはり,根性のひんまがったクロンボ犯罪者なみです。・・・この馬鹿だけは。」 「C○○KIE一味はやはり馬鹿としか思えない。・・・あのペテン師女」 「C○○KIEの馬鹿」 |
2ちゃんねるの書き込みの特徴として、1つの書きこみの文章量はあまり多くない。そのため動物病院の例の引用においても短い語句ばかりで、これを杓子定規に解釈すれば「言葉狩り」の様相を呈するようになってしまい、あまり適切な例ではないと思われる。 しかし反面、ニフティ訴訟のほうでは「どういう表現が侵害になるか」がよく分かる内容となっている。それは「最初から誹謗を目的としていること」であろう。つまり、文章に悪意があるか否かである。 そこで国沢氏に対する2ちゃんねるの書きこみを考えてみると、まずその単語を使用すること自体が、誹謗である単語は悲しいことに存在する。「ダニ沢」「氏ね」「逝ってよし」「寄生虫」「クズ」などがそうである。これらは他に表現があるにも関わらず敢えて使用している中傷表現とみなさざるを得ない。加えて「電波」もかなり危うい位置にある。これも他に表現方法があるにも関わらず、センセーショナルな表現をしているととられる可能性が高いのと、世間の通俗的表現とは認められないであろうからである。 では、「妄想記事」というのはどうだろう。これも一見過度の表現にも思えないこともないが、
事例として、国沢氏のダッジ・バイパーの試乗記を挙げる。彼は「発進は5,000RPMまで回転をあげてクラッチを繋いだ」とか「2速ならホイルスピンしない」と書いている。 しかし2chで実際のオーナーと名乗る人物が、「5,000回転でクラッチミート?この車でそんなことしたら確実にぶっ壊れる」「2速でも余裕でホイルスピンする」と反論があった。その上で、「<例>これは実際に乗って書いた記事とは思えない。妄想記事ではないか」と述べたとする。 この場合は、彼が書いた記事への批評および感想という側面が強いため、根拠無き誹謗とは一線を画す。よって名誉毀損の成立する可能性は低いと思われる。もし国沢氏が、この発言を名誉毀損であるとして訴えるためには、これが名誉毀損なのは「デタラメだから」なのか「真実だから」なのかも示さなくてはならなくなるであろう。もしデタラメというならば、実際にその通り試乗したという証明を国沢氏がする必要が生じる。真実であれば、国沢氏は試乗せずにあたかも試乗したかのような記事を書いていると自ら公表することとなり、今後の仕事に大いに影響するであろう。 しかし、上の文章を「<例>実際に乗ったとは思えない妄想記事ですな。一体どこの電波を拾ったのですかな、ダニ沢君。」と書いてしまうと、表現が執拗であるかのようにもとられるため、誹謗とみなされてしまう可能性が一気に高まる。 また言うまでもないが、根拠を示さずにいきなり「<例>また妄想ですか?」とだけ書くのも同様であろう。批評の体をとるためには、説得力のあるその根拠も書かねばならないのである。 これ以外に、国沢氏自身がした誤字である「ヒョウンカ」も国沢氏を示す単語として用いられるが、筆者としてはこれも過度の表現ではないかと考える。相手を小馬鹿にするかのごとき意図を感じるからである。 ● ガイドラインを基にした名誉毀損の表現
同様に、もし仮に国沢氏が某島を侮辱するかのごとき発言をしたとして、その島に住む方が見ていなかったとしてもその島の方に対する名誉毀損は成立する、ということである。 このような場合、第三者が「あなたが書かれていることは島に対する名誉毀損にあたる可能性があります」という忠告をすれば「あなたは島の方ではないから私を非難する権利は無い」と反論しがちだが、これは誤りで、既にこの時点で潜在的な名誉毀損が成立している可能性は高い。 また権利侵害は、それが類推できる人物の隠語であっても成立するため、「国シ尺」とか「クンニ沢」という表現で国沢氏?を誹謗しても名誉毀損は成立し得るとみなすべきだろう。
<例1>コーナリングの限界特性をチェックしている時の速度は20km/h程度である <例2>○×の試乗記事を書くにあたり、○△×の広報が記事の草案を手渡していた <例3>限界特性を調べている「公道を模したテストコース」とはお台場の公道そのものである <例4>△△○の取材に際しメーカーから高級旅館での接待を受けた <例5>英語能力が皆無で、海外取材でもらったブローシャーもスペックしか参考にできない <例6>ご自身のセルシオは土足禁止仕様となっている 上の6つの例でみると、(6)は彼の評論に関してはどうでもいい内容であり、正当な関心事とはみなされないと思われる。(5)と(4)は少し微妙である。内容によっては有効であろう。(1)〜(3)は、彼の仕事の成果物たる評論の制作過程に関しての事実の公表であるから、正当な関心事とみなされる可能性が高いと思われる。 更に「公訴前の犯罪行為の公表は社会の正当な関心事」であると規定されていため、仮に国沢氏が窃盗を働き、検察が起訴するか不起訴するかという段階での、窃盗の事実の公表は名誉毀損にはならない、ということになる。 しかしこれはあくまで「事実であれば」という前提があるので、でっちあげであればもちろん名誉毀損である。
まず私人であっても、その人物が社会的に与える影響によっては事実の公表は名誉毀損にはならない、とある。 国沢氏の場合、雑誌に記事を書いている。それは多くの人の目に触れることを目的としたものであるため、潜在的に社会に与える影響は大きいと思われる。つまり、彼の記事内容に関する事実の公表はある程度は認められるとみなしてよい。 しかしここからが留意しなくてはならない点である。その事実の公表は、「私怨を晴らす、私欲を追求する」などの目的で行われてはならないのだ。 例えば、もし彼の掲示板で袋叩きにあったからといって、その恨みを晴らそうと「例のミーティングでは国沢氏は一番ヘタだった」と事実を公表しては、これは公益を図るものではなくうさばらし=私怨とみなされてしまう可能性があるということだ。 また、例えば筆者が有料のページを持っていたとして、そこでだけ見られる国沢氏に関する事実を公表していれば、これもまた「私利追求」とみなされる可能性がある。 加えて文章の内容、表現方法、具体的資料も必要であり、これらを総合的に合せて彼の仕事を評価するのであれば、名誉毀損とはみなされないと思われる。もちろん、国沢氏憎しと論調が過激になってしまってはいけない。 では、上の<例1>を基に、どの程度であれば名誉毀損ではないか考える。 <例1A>限界特性がどうこう言ってるが、ほとんど止まりそうな速度でサイド引いてるだけ。ドヘタクソですな(笑) <例1B>俺のことをヘタとか言ってるが、自分は20km/h程度の速度でしか限界を調べることができないじゃん <例1C>彼は20km/h程度の速度でしか限界を調べることができません。もっとマトモな評論をしている私、池屋圭ニのページへどうぞ! <例1D>彼の限界特性の記事は非常に疑問です。なぜなら彼は20km/h程度の速度でしか限界特性を調べていなかったからです。これだけの条件で、無数にある条件下での車の特性全てを知ったかのごとく書かれるのは問題があります。事実、○×という条件下においての横G加速度はxxで、、これは彼がこの車より遥かに性能がよいとするライバル車よりも優れています このうち、どれが公益を図ったものかは一目瞭然であろう。 ポイントは、
「<例>国沢さん、先日の●●でのエビカニの味はいかがでしたか?さぞ大量に食べられたんでしょうねえ。極めて好意的な記事を書いてくださったので分かります。しかし夜3時まで飲んでおられたようですが、7時からの試乗には酒は残っておられたんではないですかねえ。写真では妙にハーフスピンのキレが悪うございましたようですが。」 こういう書きこみであろうと思われる。この場合、憶測のように書かれてはいるが、現場に居た者からの情報がかなり入っていることは通常は読者は読み取るのだ。 もし仮にこの記述について、国沢氏が「憶測の表現で虚偽の文章を掲載している」と訴えても、それが事実であれば、この文章であれば「事実の公表」とみなされ、「虚偽の発言での権利侵害」ではなく「事実の公表が公の益にかなうものかどうか」という視点での裁判となるのだ。 とはいえ、上の例は嫌味にあふれていて、一般通念的にあまり好ましい書き方ではない。これは 「<例>先日、某試乗会にてお会いした者です。翌朝7時から試乗会というのに、3時まで酒を飲んで騒がれていたようですが、次はもう少し自制をお願いします。旅館の方に怒られてしまいましたので(笑)」 こういう表現であればかなり穏やかなものとなる。それでいて行動について「ちくり」と刺す効果はある。批判には必ずしも過度の挑発は必要ないのだ。 ところが、逆に「本当に憶測で書いた」ものが、「事実の公表」として名誉毀損となる可能性も発生する。 「<例>国沢氏はヅラじゃないのか」と書いてしまった場合、本当にヅラであれば、「隠しておきたい事実を公表した」として訴えられることもあるということだ。 まったく憶測で書いた者が事実であった場合は、これは「偶然の一致」であり、名誉毀損とはなり難くなるのではないかと思われるが、その場合は「事実をまったく知らなかった」ということが証明できなくてはならないと思われる。 とにかく、このようなケースもあるため、批判の中で仮定をする時は、それが(名誉毀損になりかねない)事実を知った上でのことではない、ということを明示しておく必要もあるだろう。しかしこれも 「あくまで推測ですが、○△かなあ?(笑)」 このような表現は微妙であり、事実を知った上での結論とみなされる可能性は高い。 「私は、○△ではないかと考えています」 これだと、事実を知っていて書いたとは考えにくい表現である。このように、仮定を用いる表現にも気を配る必要があるのだ。 ただ、国沢氏としても、憶測で書かれた「<例>某社については接待が少ないからけなしているのでは?」ということについて、事実の公表であるとして訴えると、確実に自らを滅ぼすことになってしまうので、このような都合の悪い図星のような憶測を「事実の公表」ということで訴えることはないと思われる。恐らく「事実無根の風説の流布」ということで訴えることになるであろうが。
よって、多少は個人的な批判を受けても、それがすなわち人身攻撃になっているとは言い難い面もある。このような細かな批判は俗に「有名税」としてとるべきであろう。 だが、国沢氏はいわゆる「公僕」とは違うので、たとえ某企業から接待を受けて提灯記事を書いたとしても、それは自由競争下の営利活動の一環ともいえるので、その件についての事実の公表のみならず人格攻撃に至るまで批判をするのは少々やりすぎ、ともいえるかもしれない。そこまで攻撃せずとも、評論家またはジャーナリストと名乗る人物が特定企業と癒着などしているという事実を示せば、一般的な評価は十分下落すると思われる。 ● 対抗弁論
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Q. ホームページに対する批判は。 A. ホームページというのは、本を発行するのと同じ行為と考えられます。従って、仲間内に対するアピールのつもりでも、現実には、不特定多数人が、書店で本を見たり、購入するように、当該ホームページもきわめて多くの人が見ることになります。こうした事から、書籍に対して自由な批判が行われるように、ホームページに対しても自由な批判が保証されなければなりません。 これまで、ホームページのような情報の開示方法を知らなかったものにとって、ホームページは表現を自由にできる媒体であり、自分のプライベートな事でも公開できるので、その面白さしか考えずに、公共の公衆が見ること、批判することを認識しないことがあります。 多くのわれわれ大衆は、情報を受け取るばかりで、又情報に対する態度は批判という形でしかありえなかったのですが、今日では、自ら情報を開示し、情報の送り手になり始めたのです。従って、当然ながら、批判の対象にもなるのです。批判に慣れていないものにとって、批判されること自体が苦痛であることは間違いありません。 このことから、批判されない自由があると思うのでしょう。 これは基本的な間違えで、表現の自由は、そのものが批判の自由のことであり、論理必然に批判の自由を保証するものなのです。ホームページを作成することは、公的な世界で、自分を表現することであって、自由を享受する分、批判に耐える必要があると言うことを意味します。そして、批判には、誠実に回答するということが必要になってきます。 【牧野法律事務所・牧野二郎弁護士】 (毎日法律ビル より引用) |
このように、「言論には言論で対抗する」のが基本であり、「発言の自由はすなわち批判されることの自由」でもある。「自分は言いたいこと言うが、批判は許さない」というのは、基本的権利を定めた憲法にも違反する恐れがあるのだ。 ところが現実には、新聞・雑誌において名誉毀損があった場合、名誉回復は実に難しい。まず記事を見てから抗議したとしても、その抗議が全面的に認められた場合でも、その対応は次の号での謝罪(または討論)となる。 しかも批判に誠実な出版社ならともかく、仮に独善的な出版社であれば批判や意見は「誌面の関係で」などの理屈をつけて掲載しないこともあり得る。また別の出版社に反論を寄稿し、掲載されることもあるが、名誉毀損があった誌面との媒体は違うために、読者が同一であるとは限らず、十分な反論効果があるかどうかは疑わしい面がある。 しかし電子掲示板の場合は、基本的には参加者全員に平等な発言権が与えられているため、対抗言論が容易であり、かつ誌面の都合などによる選択がされないので名誉回復は誌面などでの名誉毀損に比べて遥かに容易である。このため、上のような見解になっているものと思われる。 しかし、もし対抗弁論の機会を奪ってしまってはどうか?この点は、この後にまとめて述べる。
この件においては、国沢氏も批判者に対して相当性を欠く発言を多数行っている。いくつか例示すると、
また、「対抗言論が効果があるとみられる場合は名誉毀損とはならない」とあるが、kunisawa.netの掲示板についていえば、これは皮肉にも国沢氏を擁護する人が足を引っ張ることになる恐れがある。 例えば6-9の件だが、国沢氏の反論に関して常連は「行間を読め」などとして完全に擁護している。もしこの件で国沢氏が批判者を訴えた場合、国沢氏の対抗言論が非常に効果的であるとして常連の発言が証拠となってしまう。加えて、更に皮肉にも国沢氏への批判をする第三者の発言も削除しているのだから、これでは国沢氏の言論が圧倒的な効果を持っているという証拠しか残っていないのだ。
「さすが素人の感性は凄い!と関心しています」 と返答している。 これなどは、表現はおだやかだが相手(の知識不足)を卑下する文章以外のなにものでもなく、かつ書く必要も無い。表現的には抑えているので微妙であるが、相手を馬鹿にしようとしていきすぎた表現をすることは、厳にいましめなくてはならないのである。
この点については、WEBは新聞と同列に扱えるかどうか、を考える必要がある。 これが雑誌であれば、新聞の場合とかなり近くなる。いかにBCが嘘っぽいスクープ記事を書いても、これまでのスクープ記事では当たったものもあるため、読者がいかに「嘘」と分かっていても、それが嘘であると明記なりしていない限りは社会的な信用低下の可能性があるため、名誉毀損となることがある、ということである。 それではWEBについてだが、基本的には情報発信であるから、「嘘の記事を嘘であると書いていない限りは」嘘の記事を真にうける可能性がある以上、やはり名誉毀損が成立する可能性はあるとみてよいのではあるまいか。いや逆にそうみなすべきである。 つまりは「何が嘘で、何が真実か」は、明確に分かるようにしておかないといけない、ということであろう。 これは国沢氏の方がまずいのであるが、冒頭で「私のページにはいいかげんな情報は載せない」と明記している以上、そこに書かれていることは、その大半が真実であると読者に思わせるものである。 そうした場合、「〜ではないだろうか。〜に違いない」と書いたとしても、読者はそれを真実と判断する可能性が高い。それで、もしその不確定な表現が名誉毀損にあたると訴えられた場合、「これは冗談です。行間を読んでください」という理論はまったくもって通らないということである。 というわけで、いかに仮定の文言を用いて批判しても、それは名誉毀損となり得る。国沢氏はこのような表現での批判が多く、「逃げ」をうっているのであろうが、実際の裁判ではそこまで甘くはないということは知っておいた方がよいであろう。 ちなみにこの判例での裁判は、東スポの記事によるものであったと記憶している。大半の読者が「嘘っぱち」と認識するはずである東スポの記事ですら「いくばくかの真実がある可能性がある」とみなされたのであるから、真実か嘘かは本当に明記しなくてはならないだろう。 しかし、これを厳密に解釈すると、「〜というウワサ」「〜らしい」「〜にちがいない」「おそらく〜だろう」という表現でうかつに憶測や明らかな嘘、でっちあげなども書けなくなり、つまらない文章となってしまう可能性がある。しかし他人(モノもそうだが)を批評するということは、他人の社会的評価を下げる可能性もあるということである。その危険性も考えなくてはならないし、そもそも批評は面白さを目的として行うものではないのではあるまいか。面白さはあくまで批評の骨格を飾るだけのものにすぎないのだ。 ● 心がけること 以上のことで分かるように、名誉毀損とならないためには、まずその対象を批評する目的が「公益を図るため」である必要がある。相手を「やりこめてやろう」などという考えで批評を行ってはならない。 そして文章はあくまで冷静かつ丁寧であらねばならない。「少し過激にした方が面白いだろう」と文章を飾るのは控えた方がよい。また、憶測を結論めかせて批判するのも望ましくない。 と、こう書くと、心がけるべきことはただ1つしかないということが理解できるだろうか? 「批判をする時は、まず冷静になり、第三者の目で考えてみること」 である。これさえ守れば、激烈な表現や過度の批判などはかなり影を潜めることになるはずである。もちろん、いかに相手に非があると内心思っていても、その感情を文章に出してはならないことは、言うまでもない。 相手も自分と同じ一人の人間である、という意識をもって、相手の権利も尊重して批判を行いたいものである。少しでも相手を自分より下に置いて文章を書けば、坂を転がり落ちるように名誉を毀損するかもしれない文言や表現が並んでしまうであろう。 とはいえ批判するということは、批判対象に不満があるということであり、それはもうその時点で相手を下に見てしまっている。こういう場合は、相手に敬意を表すつもりくらいで批判をした方が、冷静に第三者的批判を書くことができる。 もちろん慇懃無礼となれといっているわけではないので、念のため。 |
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