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● 著作権の侵害


これも国沢氏を批評する際に、留意しなくてはならない国沢氏の権利である。ここであらためて書くまでもなく、あまたのWEBページにおいて引用や転載についての解説がおこなわれているが、しかし「引用」と「転載」の解釈については、それらのページで口をすっぱくするほど言っているにも関らず、明らかに誤った認識をしている方もいるようである。おさらいの意味でも記述しておく。
著作権についての法律たる著作権法では、著作物とその権利については、以下のように書かれている。その一部を抜粋する。

第一節 通則

(目的)

第一条 この法律は、著作物並びに実演、レコード、放送及び有線放送に関し著作者の権利及びこれに隣接する権利を定め、これらの文化的所産の公正な利用に留意しつつ、著作者等の権利の保護を図り、もつて文化の発展に寄与することを目的とする。

(定義)

(略)

一 著作物: 思想又は感情を創作的に表現したものであつて、文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するものをいう。

二 著作者: 著作物を創作する者をいう。
(略)
七の二: 公衆送信 公衆によつて直接受信されることを目的として無線通信又は有線電気通信の送信(有線電気通信設備で、その一の部分の設置の場所が他の部分の設置の場所と同一の構内(その構内が二以上の者の占有 に属している場合には、同一の者の占有に属する区域内)にあるものによる送信(プログラムの著作物の送信を除く。)を除く。)を行うことをいう。
(略)
九の四 自動公衆送信: 公衆送信のうち、公衆からの求めに応じ自動的に行うもの(放送又は有線放送に該当するものを除く。)をいう。

九の五 送信可能化: 次のいずれかに掲げる行為により自動公衆送信し得るようにすることをいう。
イ:公衆の用に供されている電気通信回線に接続している自動公衆送信装置(公衆の用に供する電気通信回線に接続することにより、その記録媒体のうち自動公衆送信の用に供する部分(以下この号において「公衆送信用記録媒体」という。)に記録され、又は当該装置に入力される情報を自動公衆送信する機能を有する装置をいう。以下同じ。)の公衆送信用記録媒体に情報を記録し、情報が記録された記録媒体を当該自動公衆送信装置の公衆送信用記録媒体として加え、若しくは情報が記録された記録媒体を当該自動公衆送信装置の公衆送信用記録媒体に変換し、又は当該自動公衆送信装置に情報を入力すること。

ロ:その公衆送信用記録媒体に情報が記録され、又は当該自動公衆送信装置に情報が入力されている自動公衆送信装置について、公衆の用に供されている電気通信回線への接続(配線、自動公衆送信装置の始動、送受信用プログラムの起動その他の一連の行為により行われる場合には、当該一連の行為のうち最後のものをいう。)を行うこと。
(略)
十の三 データベース: 論文、数値、図形その他の情報の集合物であつて、それらの情報を電子計算機を用いて検索することができるように体系的に構成したものをいう。

十一 二次的著作物: 著作物を翻訳し、編曲し、若しくは変形し、又は脚色し、映画化し、その他翻案することにより創作した著作物をいう。

十二 共同著作物: 二人以上の者が共同して創作した著作物であつて、その各人の寄与を分離して個別的に利用することができないものをいう。

十五 複製: 印刷、写真、複写、録音、録画その他の方法により有形的に再製することをいい、次に掲げるものについては、それぞれ次に掲げる行為を含むものとする。

十九 頒布: 有償であるか又は無償であるかを問わず、複製物を公衆に譲渡し、又は貸与することをいい(略)

5 この法律にいう「公衆」には、特定かつ多数の者を含むものとする。

8 この法律にいう「貸与」には、いずれの名義又は方法をもつてするかを問わず、これと同様の使用の権原を取得させる行為を含むものとする。

(略)

(著作物の発行)

第三条 著作物は、その性質に応じ公衆の要求を満たすことができる相当程度の部数の複製物が、第二十一条に規定する権利を有する者又はその許諾(略)を得た者若しくは第七十九条の出版権の設定を受けた者によつて作成され、頒布された場合(略) において、発行されたものとする。

(略)

(著作物の公表)

第四条 著作物は、発行され、又は第二十二条から第二十五条までに規定する権利を有する者若しくはその許諾を得た者によつて上演、演奏、上映、公衆送信、口述、若しくは展示の方法で公衆に提示された場合(略)において、公表されたものとする。

2 著作物は、第二十三条第一項に規定する権利を有する者又はその許諾を得た者によつて送信可能化された場合には、公表されたものとみなす。
(略)


第二章 著作者の権利

第一節 著作物

(著作物の例示)

第十条 この法律にいう著作物を例示すると、おおむね次のとおりである。

一 小説、脚本、論文、講演その他の言語の著作物
(略)
2 事実の伝達にすぎない雑報及び時事の報道は、前項第一号に掲げる著作物に該当しない。
(略)

(権利の目的とならない著作物)

第十三条 次の各号のいずれかに該当する著作物は、この章の規定による権利の目的となることができない。

一 憲法その他の法令
二 国若しくは地方公共団体の機関又は独立行政法人(略)が発する告示、訓令、通達その他これらに類するもの
三 裁判所の判決、決定、命令及び審判並びに行政庁の裁決及び決定で裁判に準ずる手続により行われるもの
四 前三号に掲げるものの翻訳物及び編集物で、国若しくは地方公共団体の機関又は独立行政法人が作成するもの

第二節 著作者

(著作者の推定)

第十四条 著作物の原作品に、又は著作物の公衆への提供若しくは提示の際に、その氏名若しくは名称(以下「実名」 という。)又はその雅号、筆名、略称その他実名に代えて用いられるもの(以下「変名」という。)として周知のものが著作者名として通常の方法により表示されている者は、その著作物の著作者と推定する。

(略)


第三節 権利の内容

第一款 総則

(著作者の権利)

第十七条 著作者は、次条第一項、第十九条第一項及び第二十条第一項に規定する権利(以下「著作者人格権」という。)並びに第二十一条から第二十八条までに規定する権利(以下「著作権」という。)を享有する。

2 著作者人格権及び著作権の享有には、いかなる方式の履行をも要しない。


第二款 著作者人格権

(公表権)

第十八条 著作者は、その著作物でまだ公表されていないもの(その同意を得ないで公表された著作物を含む。以下この条において同じ。)を公衆に提供し、又は提示する権利を有する。当該著作物を原著作物とする二次的著作物についても、同様とする。

2 著作者は、次の各号に掲げる場合には、当該各号に掲げる行為について同意したものと推定する。

一 その著作物でまだ公表されていないものの著作権を譲渡した場合 当該著作物をその著作権の行使により公衆に提供し、又は提示すること。
(略)

(氏名表示権)

第十九条 著作者は、その著作物の原作品に、又はその著作物の公衆への提供若しくは提示に際し、その実名若しくは変名を著作者名として表示し、又は著作者名を表示しないこととする権利を有する。その著作物を原著作物とする二次的著作物の公衆への提供又は提示に際しての原著作物の著作者名の表示についても、同様とする。
(略)

(同一性保持権)

第二十条 著作者は、
その著作物及びその題号の同一性を保持する権利を有し、その意に反してこれらの変更、切除その他の改変を受けないものとする。
(略)

第三款 著作権に含まれる権利の種類

(複製権)

第二十一条 著作者は、その
著作物を複製する権利を専有する。

(略)

(公衆送信権等)

第二十三条 著作者は、その著作物について、
公衆送信(自動公衆送信の場合にあつては、送信可能化を含む。)を行う権利を専有する。

2 著作者は、公衆送信されるその著作物を受信装置を用いて公に伝達する権利を専有する。

(口述権)

第二十四条 著作者は、その言語の著作物を公に口述する権利を専有する。

(展示権)

第二十五条 著作者は、その美術の著作物又はまだ発行されていない写真の著作物をこれらの原作品により公に展示する権利を専有する。

(頒布権)

第二十六条 著作者は、その映画の著作物を
その複製物により頒布する権利を専有する。

(譲渡権)

第二十六条の二 著作者は、その著作物(略)をその原作品又は複製物 (略)の譲渡により公衆に提供する権利を専有する。
(略)

(貸与権)

第二十六条の三 著作者は、その著作物(略)をその複製物(略)の貸与により公衆に提供する権利を専有する。

(時事問題に関する論説の転載等)

第三十九条 新聞紙又は雑誌に掲載して発行された政治上、経済上又は社会上の時事問題に関する論説(学術的な性質を有するものを除く。)は、他の新聞紙若しくは雑誌に転載し、又は放送し、若しくは有線放送することができる。ただし、これらの利用を禁止する旨の表示がある場合は、この限りでない。
国沢氏の文章が芸術的かどうかの議論はさておくとしても、評論や日記は思想を表現したものであるから、著作物とみなされることは明らかである。

そして、この著作物に対する権利は、著作物を作成し、それが公表できる段階になった時に自動的に発生し、どこかに申告する必要はない。 著作物を作成した著作者が持つ権利のうち、主に留意しなければならないのは公表する権利、複製する権利である。もし仮に著作者が持っているこれらの権利を無視して、勝手に複製して公開(転載)したりするのは、権利侵害にあたる可能性が高いのである。

しかし、著作権法には、以下の条文もある。
第五款 著作権の制限

(私的使用のための複製)

第三十条 著作権の目的となつている著作物(略)は、
個人的に又は家庭内その他これに準ずる限られた範囲内において使用すること(以下「私的使用」という。)を目的とするときは、次に掲げる場合を除き、その使用する者が複製することができる

(略)
二 技術的保護手段の回避(略)により可能となり、又はその結果に障害が生じないようになつた複製を、その事実を知りながら行う場合
(略)

(引用)

第三十二条
公表された著作物は、引用して利用することができる。この場合において、その引用は、公正な慣行に合致するものであり、かつ、報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内で行なわれるものでなければならない。
(略)
まず第30条に書かれているように、私的利用による複製は認められている。 私的複製の「家庭内及びそれに準ずる」という文言の解釈には色々とあろうが、一般的な解釈としては、個人とその家族、または同居者までを指す。法解釈的には「友人」というのは私的範囲には含まれていないようである。
少し余談であるが、かつて国沢氏はWRCの地上波放送が始まる際に「地方の方は関東の方にビデオを撮って送ってもらおう」と呼びかけたが、これは著作権侵害の教唆になりかねないので、非常にまずい発言であったのである。

更に余談だが、次に書かれていることは一体何のことか分かりづらいが、例えば「コピー防止機能をつけているCDやDVDはそれを破ってコピーしてはならない」と言っているだけのことである。

そして32条の(引用)において、引用できるための条件が書かれているが、簡単に言えば国沢氏の評論を批評する目的ということにおいては、彼の著作物である雑誌記事、WEBページの日記などを引用することは、認められているということである。

しかし引用も無条件にしてもいいわけではない。注意しなくてはならないのは、その前後に書かれた内容で、「公正な慣行に合致」し「正当な範囲内」でなくてはならない。

具体的には著作物を「引用」していると判断されるのは、以下のような条件である。
  1. 引用しただけではなく、自分の主張・評論・批判などを行っていること
  2. 自分の主張・論評・批判が「主」であり、引用が「従」であること
  3. 引用した著作物が、自分の「主張・評論・批判」のために不可欠であること
  4. 引用した部分とその他の部分が、明確に区別されていること
  5. 引用した著作物の出典が明示されていること(本、雑誌名、URLなど)
  6. 引用されたものが「公開」されていること。(メールの引用は不可)
このうち、引用とそれ以外との区別は、筆者もやっているように別枠とする、とか括弧を使う、などすればよい。引用元を示すのも特に解釈の誤解は生じにくい。 引用したものは公開されている必要があるが、この公開とは、雑誌などについてはともかく、WEBなどの場合は何をもって言うかといえば、著作権法に戻るとちゃんと書いてあって、「送信可能な状態とされたことをもって公開されたとみなす」という箇所がそれである。
乱暴に言えばWEBサーバの上に置いた時点をもって公開されたものとみなしてもよい、ということであろう。
TOPページからたどれないようにしておいたファイルは公開されたものかどうか、とかパスワード保護されたものはどうか、等の細かい点においてはどうなるかは具体的判例がないので不明ではあるが、一般にはこの解釈でよいと思われる。

さて、著作権侵害の裁判において、引用か転載なのの判断は焦点の1つである。

そのような裁判のうち、多くの方が知っているであろう裁判の例を挙げる。 東京高裁 平成11(ネ)4783 著作権 民事訴訟事件がそれである。これは、漫画家の小林よしのり氏が、自著の批判本を出した上杉氏を相手に起こしたもので、俗に「ゴーマニズム宣言裁判」とも言われている。

簡単な経緯だが、被告である上杉氏は小林よしのり氏の著作を、自著で批判するために漫画のコマを引用したのだが、小林氏はこれに猛反発。漫画でも「これが1200円?ボロい商売しとるのー。引用したワシの漫画が1190円だ。おまえの評論には10円の価値しかない」とか(これはうろ覚えである)「勝手に人の漫画を使うとは、おまえはドロボーだ」とか、それはもう酷い罵倒ぶりを示し、それだけでは怒りがおさまらず裁判まで起こしたのである。
結果として小林氏はほんの一部でのみ主張が認められる結果となったのだが、判決文を読めば引用について非常に興味深い見解を示していることが分かる。以下に引用するが、見易くするため文章構成を変更し、原告の告訴内容とその解釈を並べて書いている。 また文章自体も平易となるようかなり手を入れてあるのでご了承願う。
上杉氏の書籍における小林氏のカットの採録は、小林氏の漫画に対する批評を目的としているということである。
それを主従関係との関連で言うと、小林氏の漫画を批評する上杉氏の文章がまず主体的に独立して存在し、カットは、あくまで「主」となる批評文章の理解を補足し、参考資料として情報を補うという「目的」の限度においてのみ、「従」として認められるものというべきである。
そうだとすると、本文そのもの(しかも重要な部分)を上杉氏が書く代わりにカットをして語らしめ、もってカットを本文の構成要素として使う「目的」で採録する場合は、もはや「従」とは認められないことになる。

カットを取り去った場合に文章がつながらなくなるとしても、そのことをもって、直ちに、本文そのものの重要な部分を上杉氏が書く代わりに「カットをして語らしめる」ために採録されているとみる根拠とすることはできない。カットを取り去った場合に、文章がつながらなくなる原因としては、様々なものがあるからである。
例えば、同じく他人の詩の一部を引用するとしても、自分の言いたいことについて文章を書く代わりに、他人の詩の一部を引用して代替するという場合もあれば、他人の詩を批評するためにその一部を引用し、それについて批評の文章を書く場合もある。
前者の場合、詩の部分を取り去れば文章がつながらなくなるのは当然であり、この場合には、本文そのものの重要な部分を書く代わりに「他人の詩の一部をして語らしめた」ということができよう。後者の場合でも、その引用部分を取り去れば、批評の対象がなくなってしまい、やはり文章がつながらなくなる。しかし、こちらの方では、批評の対象を引用によって明示しているために(引用しなければ、批評の対象を示せないことも多いであろう。)、それがなくなれば、批評の対象がなくなってしまって、文章がつながらなくなってしまうにすぎないのである。そして、このような場合に、本文そのもの(批評)を書く代わりに引用された詩に「語らしめ」ているということができないことは明らかというべきである。



(二) 漫画カットには、強力なアイキャッチ力・メッセージ伝達力・顧客吸引力があり、それはすなわち、商品力・商品価値なのである。まして、小林氏の作品は、 単行本だけでも毎号数十万部ずつ売れているのであるから、そのカットの持つ商品力は大きい。(略) このような漫画カットの特質に照らすと、漫画カット(とりわけヒット作品のカット)を使うと言うことは、それだけの商品価値、顧客吸引力、すなわち経済的メリットを借用するということである。

(四) 主従関係とは、引用する著作物と引用される著作物との相関関係によって決まるものである。そうだとすると、一コマであっても独自に極めて大きな商品価値と情報量と訴求力を持つ漫画カットを「従」として「引用」するためには、そのカットを批評する文章の方には更に高度の存在価値や著作物性が認められなければならない。しかし、上杉氏が書いた批評文は、例えばカット6については一行触れているだけであり、カット31については抽象的で陳腐な「感想」を一言述べているだけであって、カットの批評とはほど遠く、到底、それ自体が「主」となり、カットを「従」として無断利用するだけの相対的価値のある文章とは言い難い。

(五) 小林氏のカットは、それだけで商品価値を有し、独自に取引の対象となりうるものである。また、情報量の多さやアピール力の強さから、それだけで読者にとって「読む」対象となり得ている。そのため読者は、上杉氏の文章とは関係なく、小林氏のカットの複製物から小林氏の意見やメッセージを感得し、これを「読む」ことができる。小林氏のカットは、「読者がその助けを借りて上杉氏の文章を理解するためだけのもの」とは、言い得ない。

3 分量
(一) 文章の量
「主」と「従」というためには、両者相拮抗するが一方が他方を若干上回るという程度では足りない。カットを批評する文章が「主」であり、カットが「従」といえるためには、量的に見て、カットのそれを大きく上回るボリュームの文章が必要である。ましてや、前記のような漫画カットのもつ付加価値や情報量の大きさに鑑みると、それに対して文章が「主」と認められるためには、圧倒的なボリュームがなければならない。 ところが、小林氏のカットの方が、上杉氏がそれに触れた文章よりもボリュームがあることは一目瞭然である。


(三) 数の多さ
被控訴人書籍では、合計90頁の間に、57カット(69コマ)を複製掲載している。本件証拠上、一般漫画批評や小林氏の作品批評、批判の出版物は極めて多数存在しているが、一人の作者の一つの作品からこれほど大量のカットを無断で「引用」した例は一つもない。非常識というほかなく、「引用」の濫用以外の何ものでもない。また、そのような数の多さからも、上杉氏の書籍が小林氏のカットに強く依存していることが明白となる。


文章が、商品価値や情報量において、漫画カットに劣るとしても、そのことをもって、文章が漫画カットに対して、主従関係に立てないというものではない。

甲第一号証によれば、上杉氏の書籍においては、批評を加えている部分である本文の方が、小林氏のカットよりも、上杉氏の書籍における主題(すなわち、漫画家とし ての小林氏の活動姿勢全般を対象とした論説(批評)、及び小林氏の漫画のうち慰安婦問題を取り上げた箇所についての批判、反論)に関して重要な位置を占め、高い 存在価値を持っていることは明らかである(原判決の事実及び理由の「第三当裁判所の判断」一4認定に係る、小林氏のカットの採録が被控訴人書籍の読者に対して 与える効果参照)。

換言すれば、上杉氏の書籍において著者が論じようとし、実際に論じたことの中心となっている事柄は、右主題に係る論説(批評)、批判、反論 であり、それはすなわち本文の部分である。

一方、甲第二ないし第一五号証及び弁論の全趣旨によれば、小林氏の書籍は、小林氏自身「意見主張漫画」であると自認するものであり、その意見は各話ごとに主張・表明されていることが認められる。そして、上杉氏の書籍に引用された小林氏のカットは、小林氏の漫画のごく一部にすぎず、上杉氏の書籍の前記主題に係る批評、 批判、反論に必要な限度を超えて、小林氏の漫画の魅力を取り込んでいるものとは認められない。

以上の点からすれば、上杉氏の書籍においては、上杉氏の論説が主、小林氏のカットが従という関係があるということができるのである。
(略)

しかし、漫画カットであることから、直ちにそれに対して文章が「主」と認められるためには、文章の方が量的にみて圧倒的なボリュームがなければならないというものではない。

(略)
他人の意見を批評、批判、反論しようとすれば、他人の意見を正確に指摘する必要があるから、小林氏の意見を批評、批判、反論するために、その意見を正確に指摘しようとすれば、漫画のカットを引用することにならざるを得ないのは理の当然である。そして、その批評、批判、反論が多岐・多面的にわたればそれだけ引用する漫画カットの数も増加することになるのは、やむを得ないところである。
(略)
右事情を前提に前認定に係る上杉氏の書籍における小林氏のカットの分量の全体に対する比率を考慮すれば、引用されたカット数が前記の程度であるとしても、上杉氏の書籍の本文とカットとの間には、十分主従関係が認められるというべきである。
これは非常に重要な見解である。 まず、文章の主従関係は、その文章が持つ情報量や価値により左右されす、あくまで引用した者が論じている「内容」により判断されるべき、としている。 また、「引用する者の論述の意見を正確に伝えた上で批評したいのであれば引用が長くなるのはやむをえない」とし、必要があると判断すればかなり長い引用も認められるとされた。

そして、漫画のカットにはセリフには現れない、つまり明文化されない、微妙な表情等の絵での表現がある。この分量は絶大なものがあって被告の文章はこれに及ばないと原告は主張したが、まったく退けられている。

これを国沢氏にあてはめれば、仮に彼の文章が1文字1,000円の価値を持っていて、かつ行間に多大な情報が入っていた(論評で行間を読ませるのもどうかと思うが)としても、それを批評目的で引用するには、その国沢氏の評論の商品価値も彼が意図する行間の情報量も考慮する必要はない、ということである。
これは著名人の評論の批評も保証されるということに他ならない。かつて国沢氏の掲示板では、常連が「雑誌で活躍している著名人の記事を正当に批評するには、それなりの立場でなければならない」という意の発言をしたことがあるが、完全に否定されるわけである。

更に、仮に国沢氏の文章がその大半を引用しなければ、真意を伝えることができないものであれば、ほぼ全文を引用してもやむを得ないということでもあり、その判断は引用者に任されることになる。
例えば、国沢氏の書いた評論が分かりにくいと批評を行う場合、彼の文章構成を示さねばならず、そのためにはほぼ大半を引用せざるを得なくなるのは明らかである。既出のように国沢氏の文章は主語・述語が曖昧で助詞抜きのものも多いため、一部のみ引用では確かに真意が読み取れない可能性が非常に高い。

加えて国沢氏は文章の一部のみを抽出した批評に対し「行間を読め」と反論している。これでは、全文に近い分量を引用せざるを得なくても、やむをえないところである。

ただしここで1つ注意して頂きたい点がある。 Aという者が「保全」と称して全文引用し、「では批評をどうぞ」としてBが批評をした場合、Aは権利侵害となる可能性が高いのだ。 解釈として、掲示板自体は複数の者が書いているので、掲示板全体をA、Bおよび多数の共同著作物としてみたら、批評目的の引用といえないこともないと思うかもしれない。 しかし、共同著作物の定義は「それぞれが分離して存在することが不可能であるもの」である。掲示板の書きこみは、書きこんだ者単位で分離可能であるから、共同著作物とするには無理がある。

文字数の制限もあって1つの書きこみ中に自分の意見を書くことができないかもしれないが、それであればAは後の書き込みで引用記事に対する批評はすべきであろう。でなければ、引用ではなく、転載と判断されるのである。
● 無断引用禁止の意味あい

これはかなり多くの方が勘違い、または間違って解釈したせいで生じた概念である。

転載については、複製を頒布することであり、それは著作者の権利であって無断で行うことは権利侵害である。
しかし、上記の著作権の制限の規定により、引用については法律にて認められているのである。つまりこの法律の条項を守った上においての引用は著作者の権利は適用されない。

すなわち、
『無断引用禁止』というのは著作者の権利ではなく、あくまでただの『お願い』にすぎないということになる。

それでも無断引用が禁止であるといのであれば、それは言っても各人の自由だが、もし地上波放送のTV局が「この番組は家庭用ビデオデッキでの私的複製をしないでくれ。もししたい場合はTV局に問い合わせて許可を得てからにしてほしい」と言えば、貴方はどう感じるだろうか?
「無断引用禁止」とは、それと同じようなことを利用者に強いるものであり、また守るべき義務があるものでもない、ということは理解しておいてもよいだろう。

ただ、唯一権利侵害として訴えることができるとすれば、それが引用の範疇を超えて転載であるとして、無断転載で訴えることは可能である。しかし上のゴーマニズム宣言裁判の例を見ても、よほどの逸脱がない限りはこの訴えが認められることはないであろう。もちろんこれはその『引用』が適切な場合は、であるが。

余談:中には「無断引用の場合は弁護士と相談の上、すみやかに訴えます」という文言を自身のWEBページに載せている文筆家もいて、これを見た時は筆者は苦笑してしまった。無断で引用した場合に有罪となった判例があるのであれば、ぜひ見せて頂きたいものである。まあ文筆業をされている方に限って「灯台、下暗し」となり、自身の職業に関する法規について疎いのかもしれないが。
● 論説の転載について

著作権法には、39条に書かれているように、時事問題についての論説は、禁止している旨の表示がない場合は転載ができる、としている。

ただし現在、ほとんどの雑誌にはどこかに小さく「無断転載禁止」の文字があるため、実質的には無断での転載は不可能である。

このようになったのは、下の「新聞界の基本的考え方」を読めば理解できるとおもわれる。
<著作権問題に関する新聞界の基本的な考え方>

周知の通り、自由で民主的な社会の維持とその発展のためには、新聞が社会生活に必要な情報や意見をできるだけ広く国民大衆に伝達することが不可欠の条件である。
(略)
すなわち、日々の紙面づくりに当たっては、読者大衆の欲求と期待に沿って、収集、蓄積した情報をより豊富に掲載すべく努めているばかりでなく、独自の価値判断に基づいて、より適切、より正確な 記事とするための創意、工夫もあわせ行っている。
かねて、新聞は、このように高度に独創的な著作物性を有する各種記事のうち、
特に解説・論説などについては、報道・教育など純然たる公共目的である限り、適正な範囲で他に引用、転載されることは原則的には容認するとの態度を示してきた。これは、繰り返すまでもなく、可能な限りの手段を通じて国民大衆に多様な情報と意見を提示することが、自由で民主的な社会を存立させていくための要件であり、新聞の公共的使命であるとの考えに基づくものである。

しかるに、近年、高度の能率性を備えた複写機器の飛躍的な発展と著しい普及により、報道・評論活動を主たる業務としない者が、 もっぱら営利を目的として、著作物として保護されている新聞記事を無断で複製、編集し、これを一般に頒布、もしくは、特定集団内の情報サービスとして組織的に利用するなどの傾向が顕著である。

(略)

新聞の得た情報が営利を目的として無断で利用されることは、その社会的、文化的、経済的価値が著しく損なわれることを意味しており、著作権法の精神に照らして到底認容しがたいものといわねばならない。

以上の趣旨から、日本新聞協会編集委員会は、ここに新聞界内部で確立された考え方を明らかにし、あわせて将来にわたる問題点をも指摘することとしたい。


第39条(時事問題に関する論説の転載等)
現行著作権法第39条は政治上、経済上、社会上の時事問題に関する論説は、禁転載の表示がない限り、他の新聞、雑誌等への転載ができるとしている。
この条項を設けた趣旨はさる昭和44年に新聞界が発表した見解にもある通り、自由で民主的な社会において欠くことのできない言論の自由を尊重する立場から、公共的利益のために、本来ならば 完全に著作権の保護を受けるべき時事問題に関する論説の転載を認めたものであり、あくまでも各種メディアが「報道的な態様において」(文化庁『新しい著作権法の概要』)利用する場合にのみ許容されているものと解される。

従って、ここでいう「論説」とは原則的には新聞の論評記事のなかでも特に「社説」を指すのであって、その他の論評記事はこの条項に該当しないというべきである。しかし、かねて新聞界が主張してきたように、社説に準ずるとみなされる論評記事については、個々の記事内容いかんによって利用できると考えられる。
この意味で、同条項における本来の趣旨を逸脱して、「社説」のみならず、解説、評論記事等を営利を目的として無断で転載、編集して販売するなどの行為は正当な自由利用と認めることはできない。
以上の観点から新聞界としては、同条項の適用範囲を下記のように解釈し、これを今後新聞界の慣行として確立することとしたい。
(1)「政治上、経済上、社会上の時事問題に関する論説」とは政治上、経済上、社会上の時事問題に関する社説ならびに社説とみなされる論評記事を指す。
(2)署名入りの時事に関する評論、解説記事は利用できる範囲から除かれる。ここにいう署名入りとは、必ずしも氏名を明示したものにとどまらない。姓のみ表記した記事(例えば○○ニューヨーク特派 員、本紙○○記者など)についてもこれを署名入りとみなす。また、“署名入りの時事に関する評論、解説”のなかには、社外の評論家の記事はもちろん、海外特派員、国内特派記者、論説委員、解説 委員、編集委員等の評論、解説も含まれる。
(3)社内、社外の筆者を問わず、署名の有無を問わず、「コラム」は同条項の利用の範囲から除かれる。
ここでいう「コラム」とは、一般的に政治、経済、社会、文化など各分野の問題を特に筆者の思想、感情からとらえて論評した囲み記事もしくはこれに準ずる記事を指す。


新聞著作権に関する日本新聞協会編集委員会の見解より引用)
では、非営利目的であれば、論説を転載しても構わないのか?という意見も出るだろうが、WEBであれば新聞社のページの文言はまったく劣化なく転載可能であり、権利侵害の脅威は増えこそすれ減ることはない。よって、現在では非営利目的でも論説の転載は控えた方がよいであろう。
● 肖像権の侵害

これは本来はプライバシーの権利に関するものであるが、引用・転載という形で使用されることが多いので、こちらで考察を行う。


肖像権に関する判例としては、昭和44年 最高裁判所大法廷判決・昭和40(あ)1187 (京都府学連事件)によるものがよく挙げられる。
判決文:

ところで、憲法一三条は、「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」と規定しているのであつて、これは、国民の私生活上の自由が、警察権等の国家権力の行使に対しても保護されるべきことを規定しているものということができる。 そして、
個人の私生活上の自由の一つとして、何人も、その承諾なしに、みだりにその容ぼう・姿態(以下「容ぼう等」という。)を撮影されない自由を有するものというべきである。

これを肖像権と称するかどうかは別として、少なくとも、警察官が、正当な理由もないのに、個人の容ぼう等を撮影することは、憲法一三条の趣旨に反し、許されないものといわなければならない。しかしながら、個人の有する右自由も、国家権力の行使から無制限に保護されるわけでなく、公共の福祉のため必要のある場合には相当の制限を受けることは同条の規定に照らして明らかである。そして、犯罪を捜査することは、公共の福祉のため警察に与えられた国家作用の一つであり、警察にはこれを遂行すべき責務があるのであるから(警察法二条一項参照)、警察官が犯罪捜査の必要上写真を撮影する際、その対象の中に犯人のみならず第三者である個人の容ぼう等が含まれても、これが許容される場合がありうるものといわなければならない。


日本国憲法:

第十三条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
これは警察が市民を撮影した場合におけるものである。 よってこれをもっても、「公が撮影した場合はともかく、民間が撮影した写真を掲載する場合は権利侵害ではないのではないか」という意見もある。この件については後で述べるとして、肖像権には、おおまかに「プライバシー権」と「パブリシティー権」とに分けられる。(両者共有の場合もある)
参考: 肖像権Q&A

プライバシー権は、すなわち「公にさらされない権利」であり、氏名・住所・連絡先等と同列のものである。パブリシティー権はその人物の容姿に商品価値がある場合に、その権利を勝手に使われたということによるものである。

さて、後者はともかく、プライバシー権は、どのような場合まで尊重されるべきものか?実は撮影する側にも、それが芸術的意味合いの場合は「著作者」としての権利が、時事問題の場合は「報道」としての権利が存在する。そのため、双方の権利のぶつかりあいとなってしまう。

この両者の線引きはどのようなところにあるのだろうか?
前述のガイドラインでは以下のように書かれている。

  1. 行楽地等の雰囲気を表現するために、群像として撮影された写真の一部に写っているにすぎず、特定の本人を大写しにしたものでないこと
  2. 犯罪報道における被疑者の写真など、実名及び顔写真を掲載することが公共の利害に関し、公益を図る目的で掲載されていること
  3. 公人の職務に関する事柄などの社会の正当な関心事ということのできる場合であり、顔写真掲載の手段方法が相当であること
  4. 著名人の顔写真については、当該著名人のパブリシティによる顧客吸引力を不当に利用しようとしたものでなく、顔写真の掲載が社会の正当な関心ごとということのできる場合で、顔写真掲載の手段方法が相当であること
  5. その他、1〜5 に準じること
撮影それ自体について同意が得られていると思われる写真であっても、客観的に見て、通常の羞恥心を有する個人が公表されることに不快感又は精神的苦痛を感じると思われる写真(入浴中・治療中の写真等)については、削除できる場合が多い

2から考察するが、まず事件性・犯罪性があるなどの、社会の正当な関心事の場合は、ある程度プライバシーは制限される。とはいえ事件関与者や容疑者以外の周囲への取材や報道によるプライバシー侵害についてはかねてより問題視されており、注意すべき点ではある。 恐らく肖像権に関しては行政措置(逮捕など)が実施されない限りは写真の公開などは控えた方が無難ではないかと思われる。

次に犯罪以外で考えると、報道としての立場からはどうなのかといえば、もし特定人物の取材であれば取材対象者の同意を得ることが容易と思われるので、さほどの問題ではないはずである。
しかし報道性はあっても、祭りの雰囲気や、味覚狩りの状況、事故の影響による駅構内の混乱の状況を報じた中の人物の写真・映像や、または報道性のない「芸術」や「趣味」としての写真の撮影・掲載の場合だが、もし肖像権を厳密に解釈すれば、写真にたまたま誰かが写っていれば、それを公開するためにはいちいち全員に了承を得なくてはならなくなる。
これは、少々ナンセンスな話であり、1のように
「人物が風景の一部として認められるようなもの」については肖像権の解釈もかなり緩やかに解されるようである。これは、例えば公道や駅、公園などの不特定多数が出入りする場所においては、そこにいるということ自体が、一部プライバシーを放棄している、ともみなされるとの解釈からである。

では、例えば公園でベンチに座っていた方を撮影し、「○△公園にこんな人がいました」と公開するのはどうであろうか?
確かに公園であるから不特定多数が出入りするので、誰に容姿を見られても仕方が無いであろう。
しかし、WEBで公開するということは、その公園に行っていない方にも容姿を見せるということである。加えて、「ある人物を紹介する目的」としての撮影は、「芸術を目的としての写真」の範疇に入るのかどうか、と考えると少々疑問符がつくのではあるまいか。しかもその写真が、報道を目的としての公益を目指すものか、それとも個人的興味の域を出ないものかはやはり議論されるべきものである。

というわけで、1および2をもって肖像権の線引きを考えると

  • 風景を撮影していて、たまたま入ってしまったような形で撮影された写真
  • 祭りの風景、雑踏など不特定多数の状況を撮影した写真
  • デモの雰囲気を伝えようとして、たまたまデモ参加者の1人が被写体となってしまったような写真
などについては、肖像権はあまり考えなくてもよいかもしれないが
  • 公共の空間、非公共の空間での会合中のメンバーの写真
  • 公共空間であっても、明らかにその人物を被写体として撮影したような写真
  • その人物を紹介するかのようなコメントがある(をつける予定の)写真
などは、特定の人物を撮影したという意図が明確であるため、肖像権を考慮する必要があるのではないかと考える。
ついでに言えば、プライバシー権である肖像権は、告訴できるのは権利侵害者(またはその代理人)のみであるが、たとえ権利侵害者が権利侵害を認識していなかったとしても、権利侵害は成立し得る。「どうせ被写体が俺のWEBなど見るわけがない」という安易な発想は避けねばならない。

次に、写っている人物が著名人の場合はどうであろうか? これはプライバシーの項でも述べたし、上の3にもあるように、「著名人はある程度プライバシーを露出させることで社会的地位を得ているので、プライバシーの保護という観点は制限されるべき」という見解が主流である。だが、国沢氏の場合はいくら自動車雑誌での露出度が高いとはいえ、著名人ほど容姿を撮影・掲載することに公益があるとも思えず、肖像権に関しては一私人の権利に限りなく近いと思われる。

● 肖像権を侵害しない国沢氏の写真

以上のことから、肖像権を侵害しないよう配慮した国沢氏の写真の掲載を考える。

まず容姿がその人物の価値と認識される人物はパブリシティ権があると考えられ、撮影・公開は控えるべきであるが、残念ながら俳優・タレントでもない中年の一評論家の容姿に財産価値は認められるとは思えないため、これは検討する必要はないと思われる。ご子息やご令嬢については可能性があるが、なにぶんにも知名度が低すぎるので一般には価値は認められることはあるまい。

ではプライバシー権の面での肖像権となるが、報道という側面での公益を考慮したものは公開しても侵害とはならない可能性がある。
<例>某社の広報部から賄賂を渡されている現場などは、これは彼の批評の根拠の判断基準の1つとなるための情報で、公益を図るものととれる可能性もある。

しかし
<例>カニをばくついている写真は公益のためとは思えず、撮影者の興味本位としか考えられない。よってこれは肖像権の侵害の可能性が高いであろう。

以上のことより、乱暴に言えば国沢氏が仕事をしている時に撮影された写真は報道としての側面があるが、プライベートの写真は肖像権侵害の恐れあり、と考えた方がよいであろう。

では
<例>メーカー広報車両を借りてスキーに行った時の写真はどうか、については、ここでのコメントは差し控えておく。
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