1000ツゥグルグの行方

【トゥグルグ】: モンゴルの通貨単位。 1000トゥグルグ=約1US$

● あこがれ

いまや世界的にも有名になったが、毎年初夏、英国のグッドウッドにて、「Goodwood Festival of Speed」が開催されている。これはタイトルの通り、古今東西のレーシングカーの祭典であり、マーチ卿の広大な敷地に所狭しとレーシングカーが並び、観客はあこがれの車や往年のドライバーと直に触れあえるという、エンスージャストにとっては垂涎もののイベントである。今年、2003年で10年目を迎える。

このイベントに日本で最初に招待されたのはホンダである。1999年にこの誘いを受けた川本元社長は、本田宗一郎氏がアート商会の丁稚奉公時代に製作に携わった、最初のレースカーであるカーチス号をひっぱり出し(1923年製!)、このグッドウッドを走ったそうだ。 (参考:動遊倶楽部)

それから時は流れ2002年、この祭典にトヨタが日本メーカーとしては2番目に参加することとなった。絶対的規模は派手ではなかったが、トヨタはこの祭典に何と1970年式ボディをまとったトヨタ7を参加させたのである。更に驚くことに、このトヨタ7のハンドルを握ったのは斉藤副社長であった。

このことを、国沢氏は当時のTOPミニコラムにて非常に好意的に書いている。

(TOP)

2002年7月15日

イギリスのグッドウッドで行われているヒストリックカーイベントで、トヨタは『トヨタ7』を走らせた。驚くのがドライバーである。何と斉藤明彦副社長だったそうだ。
おそらく完璧を期すトヨタだからして練習走行も行ったろうけれど、当時のレーシングカーのクラッチときたら壊れてるのかと思うくらい重く、ハンドルの操作力だってパンパでない。 ギアだって気合い入れて叩き込まないとハネ返ってくる。よくぞ「乗ってやろう!」と考えたものである。これまでのトヨタは幹部がこういったイベントでハンドルを握るメーカーの対極にあったように思う。というか、日本のメーカーではホンダくらいか。トヨタは変わったな、と本気で感じた。そう遠くない時期に「通もウナるクルマ」が出てくるんじゃなかろうか。

2002年7月17日

グッドウッド続報。取材してきた知人に聞いてみたら、トヨタ7の斉藤副社長、けっこう気合い入った走りだったようだ。最初の2回はマクニッシュが運転。続いて斉藤副社長がハンドルを 握ったとのこと。なのに3回目もみんなマクニッシュだと思っていたらしい。
難しい発進時のクラッチミートもギクシャクせずきれいに決まっていたとか。ストレートではアクセルをキッチリ開け、5リッタ ーV8の豪快なサウンドを響かせたという。それ以上に感服したのは2回目の走行でのコースアウト。最終コーナーでアクセル開けすぎパワースライドし、軽くテールから接触したというから凄いじゃないの。考えてほしい。いくらターボ無しのトヨタ7とはいえ楽に400馬力以上でてると思う。車重だって700kgくらいか? レーシングタイヤを滑らせるほどアクセル開けるということ事態、タイしたものである。元ホンダ社長の川本さんは、トヨタ7のハンドルを握る斉藤副社長を見てどう思ったろう?ワタシは来年のグッドウッドで川本さんが第一期F−1のハンドル握る方に1000ツゥグルグ賭けます。もしお二人がハンドル握るようなことになれば、日本人のクルマ好きとして凄く嬉しい。


(kunisawa.netより引用、一部誤字は原文ママ)
トヨタ7に関する憶測だらけの内容には何か言いたい方もおられるかと思うが、ここでは置いておく。しかし全体としてトヨタに対して極めて好意的な文章となっていることが分かる。しかし1年後、国沢氏は念願叶って(?)グッドウッドを訪れることができたのだが、そこで見たトヨタの感想は1年前とはまったく違ったものになっていたのである。
2003年7月16日

久しぶりにカッコ悪いトヨタを見てしまった。グッドウッドのフェスティバルできれいにレストアしたトヨタ7ターボを持ち込んだ。ここまでは素晴らしいと思う。
大いに走りを期待したのだけれど、何とコースを流しただけ。観客も無反応。
グッドウッドってレーシングカーのお祭りなのだ。1930年代のレーシングカーだって全開で走り(もちろん直線部分だけです)往年の雰囲気 を堪能させてくれる。100歩譲ってトヨタ7ターボが観客とって凄い存在なら流すだけでいい。しかしトヨタ7ターボは日本人の「フェイバリット」であり、イギリス人にゃ無名。なんせレースじゃ一度も走ってないし。
せっかくレストアしたなら、
最終日くらい1000馬力と言われるカンナムカーのド迫力を見せつけスタートで100mくらいホイールスピンさせて欲しかった。ちなみにトヨタ勢でもアメリカから 来たロッド・ミレンは900馬力のパイクスピーク仕様タコマ(トヨタのトラック)で、ダートを含めたサーキットのコース幅一杯使う(あんなの初めて見ました)ド派手なパフォーマンスを見せ観客はスタンディングオベーション。旧TTEのセリカターボ駆るワルデガルドもコースのグラベル部分をドリフトさせながら曲がって行った。すっげ〜!
トヨタ7ターボや、走行前にリタイヤしたル・マンの「GT−ONE」、そして何のパフォーマンスも見せてくれなかったTF103の走行展示は本社のモータースポーツ部がしきったのだろうが、何のアピールにもならず。
「大切なクルマだから」とか「トラブル起こすと恥ずかしい」なら日本のイベントでそろそろ走らせばいいと思う。 来年も出るなら「私が好きな最近のトヨタ流」で観客を楽しませて欲しいと願う。



2003年7月12日(日記)

今回はグッドウッドで行われている『フィスティバル オブ スピード』(ヒストリカルなレーシングカーのイベント)取材が目的。詳しくは次号のベストカーを読んで欲しいけれど、まぁクルマ好きなら混乱の極みに達するようなイベントであります。どれから手を付けていいのか解らなくなるほど。走行展示も面白い。レーシングカーのイベントだけに、メーカー系(ポルシェやフォード、 BMW、ベンツ、
もちろんホンダも)は自分のミュージアムから全開で走れるクルマも持ち込んでおり見応え満点! 現代のF−1も走る。佐藤琢磨選手は昨年型のBARホンダでサービス満点! スピンターン決めようとして失敗したのは大ウケだった。続いて走ったモントーヤは見事にスピンターン決め大ウケ。佐藤選手、マスコミ受けは悪いけれど(ワタシは応援してます。だから今日もインタビューセッションあったのだけれど、嫌いになったらイヤだからあえて加わらない)、プロなんだからファンから支持され、結果を残せばいいと思う。5時、後ろ髪を引かれる思いでお帰りのバス。 まぁ明日もあるさ。食事して早寝。明日も4時に起きて出発時間の8時まで原稿書かねば!


7月13日 

今日もグッドウッド。それにしても本田宗一郎さんて凄いと思う。1954年にマン島TTを見るや「ここに出る!」と宣言。考えて欲しい。当時のホンダ製バイクと言えば、OHVばかり。経営も危機的状況にあった。
なのにマルチシリンダーのツインカムも登場し始めた2輪GPへ出ていこうとしたんだから驚く。
そして10年後、2輪GPの上位はホンダ一色になってしまう。イギリスのパラレルツインを駆逐したイタリアのマルチ(MVアグスタが有名)に引導を渡したのである。同時にF−1参戦を発表し、鈴鹿サーキットまで作った。
もし本田宗一郎さんが居なければ、自動車産業は世界レベルに達していなかったかもしれない。少なくとも日本のモータースポーツに於けるホンダの役割は大。そのあたり、グッドウッドの観客はよ〜く解っており、大歓迎されている。
ホンダに対向出来るメーカーがあるとすれば日産か? サファリラリー仕様のブルーバードやPA10、モンテ走った240Z、IMSA−GTPやル・マンカー、そしてポルシェと真正面から戦ったR38Xシリーズだって現存してます。
ドライバーも黒沢師匠に始まり、高橋さん、長谷見さん、星野さんとキラ星揃い。還暦過ぎた「ガン爺」こと黒沢元治師匠がコーナーでバタバタとハネの動くR381に乗り全開で走ったら、グッドウッドの観客もウナるか。
日産が完全復調したらぜひ!


2003年7月14日

今日も4時に起きて原稿書き。飛行機が夕方だから、それまでパワーボートの試乗会に参加する。225馬力(MDX用の3,5リッター)4ストローク船外機を細長い艇体に搭載したもので、もちろんレース用。ナビシート(フルバケットです)に座り、スロットル全開となった途端「これは!」。外洋も走れるパワーボードということだから、波があってもショック無いかと思いきや、東京湾を17フィートくらいのボートで走った時より厳しい乗り心地なのだ。
(略)
ちなみにGPSの速度計によると最高速度80〜85キロ。飛んでる写真は次号のベストカーでどうぞ。
笑ってるけどP波(縦揺れ)攻撃を喰らい極めてシビアな状況。それでもメチャクチャ楽しい。機会あったら自分でも操船してみたいです。とりあえず船舶免許は持ってますから。アタマから塩水さんざんカブってヒースロー空港へ。ラウンジでシャワー浴び、19時40分のANAの人に。食事済んだ頃、日付が代わる。

(kunisawa.netより引用  誤字は原文ママ)

筆者注:P波は地震におけるP波のことと思うが、これは縦揺れではなく、縦波である。縦波は物質の体積変化が伝わるもので、横波は物質の「ねじれ」が伝わるのである。つまり、震源からの地震波の進行方向に対して、縦に振動するか、横に振動するかというだけなのだ。(参考:なゐふるVol15-P6 )


● 大幅な落差

ご覧のように国沢氏はTOYOTA 7に関し、2002年はトヨタを手放しで誉め、2003年はうって変わって批判しているのだが、TOYOTA7に関しての2002年と2003年との違いは、2003年はターボ仕様を持ち込んだこと、そしてメインドライバーが変わったくらいなのである。

これがどういうことかといえば、2002年に国沢氏が賞賛した斎藤副社長は、今年もTOYOTA 7に乗っているのだ。

昨年あれほど斉藤副社長に触れたのであるから、「今年も斎藤副社長はTOYOTA7のハンドルを握った」という話題もあってしかるべきであろう。 しかしその雰囲気は微塵もなく、感情的ともいえる批判をしているのだ。 筆者も「何故、こんなことを批判するのだろう?」と非常に疑問であった。

その解は以下の考察の中でおぼろげに浮かんでくるかもしれない。

● カンナムカーは1000ps !

さて国沢氏は「1000psともいわれるカンナムカー」と書いているが、この書き方が「私はCanAmをろくに知りませんよ」と暴露しているに等しいことにご自身は気がついているだろうか。

というのは、カンナムシリーズにおいて1000psを超えた、又はそれに匹敵するパワーをもった車の方が稀有なのである。

1966年に始まったカンナムシリーズを1967年から71年まで席捲したのは、シボレーV8( 〜 8400cc!) を搭載するオレンジ色のMcLaren(通称オレマク)なのだが、最高出力は1967年のM6Aが580bhp、1971年のM8Dが800ps、1972年のM8Fでも750psであったようだ。(McLaren CanAm Group7 Collection )
他の車も挙げれば、1968年のFerrari 612CanAmが6200ccの620ps、1971年のFerrari 712CanAmでも6800ccのV12で750ps。Shaow DN4は8800cc、850psである。ついでにCanAmカーといえば、シャパラル2Jを外しては語れないと筆者は思うがキワモノなので置いておこう。

1000psに達したのはPorsche917である。ポルシェは当時、ご存知の通り強すぎて欧州のレースで締め出され、戦いの場をCanAmに移した。 本格参戦する前もノンターボの917で参戦しそこそこの成績をあげていたのだが、5000ccではやはり8000cc超のライバルには少々かなわない。 そこでよりパワーを求め、ターボを装着することとなる。フラット12の5000ccエンジンをツインターボ化した1972年の917/10Kは実戦で900ps(目標値1000ps)を出し、9戦中6勝し、チャンピオンとなる。このポルシェのあまりの強さにマクラーレンはカンナムを撤退する。
翌1973年の917/30は更にパワーアップし、実戦で1100psを発揮。この917/30に乗ったM.Donohueはその年全8戦中6勝(残り2勝は917/10)という圧倒的強さを誇った。そのあまりの強さに、1974にはCanAmは燃費規制をすることとなり、917/30は事実上締め出された。そしてCanAm自体もオイルショックの影響でこの年に一旦幕を閉じた。

より詳しいカンナムについては、以下のページなどを参照にすればよいだろう。特に上のお二方などつい昨日の出来事のように当時を克明に語られている。言っては何だが、国沢氏よりも彼らをグッドウッドに招待した方が遥かに有意義でかつ素晴らしい記事を書くことができると思うのは筆者だけであろうか。

「くるま村」の少年たち
McLaren M6A
Can-Am Championship
Ultimatecarpage.com

ついでにどうでもいいことだが、国沢氏はポルシェブースのレースカーの写真の下で
手前から908/栄光のル・マンと同じガルフカラーの917/917/917。悶絶寸前!
と書いている。間違ってはいないのだが、より正確には手前から908/3、917K、917/10、917/30と思われる(後ろ2つはカラーリングからの推定)。せっかく貴重な車が数多く終結している場所でレポートするのであれば、この程度の判別はつけてほしいものであると筆者は個人的に思うのだが…。(申し訳ない、筆者は少しエンスーが入っている)


まあ国沢氏を弁護すれば、TOYOTA 7 Turboは「1000psも出せた」と書いてある文献も多いし、917/10K,917/30の印象が強いとカンナムカーは1000馬力と錯覚するのかもしれないが、上記のことと、Toyota7自体が800psと公表しているのだから、評論家であれば800psと書くのが妥当であろう。

蛇足ながら1975年にクローズドコースの速度記録(確か352km/h)を作った時の917/30は1400psに達していたらしい。この記録は1990年代のインディカーでやっと破られたということであるから、917/30の化物ぶりがよく分かる。

● 100mくらいホイルスピン

これまた誇張した表現とはいえトンデモであろう。そんなものが見たければ、ドラッグレースのプロストックでも1000ps、トップフューエルなら5000psを超え、白煙と轟音をけたてて走り抜けるので、それらを見ていただきたいものである。

世界に1台しかない(と思われる)33年前の車、しかも社内有志がレストアしたとも伝えられるプロトタイプで、そのようなことを要求するのが酷というものであるまいか。以下は、2002年のトヨタ・フェスティバルにて、2002年のグッドウッドで走ったトヨタ7(NA)
をドライブした細谷四方洋氏の記であるが、トヨタ7はやはり30年余の年月を感じさせる状態であったことがうかがえる。なにしろ、コーナーも満足に曲がれないという状態であったようなのだから。
2002年11月24日:

まず本日お忙しい中トヨタ7の走行を見に来て頂いた方々にお礼を申し上げます。
そして、ヘアピンなどでトヨタ7が来るのを待っていたファンの方々には大変申し訳ない事をしましたが、練習中には周回したのですが、
足回りが完璧ではなかったので大事をとってストレートだけの走行にしました。

トヨタモータースポーツフェスティバルにおいてのトヨタ7のNAエンジン音は当時を知る私にとっては完調とは言えませんでしたが、情熱と熱意でここまで仕上げたエンジニアの方々にお礼を申し上げたいと思います
今回、ストレートだけの走行でしたが、6000回転まで注意しながら走りました。
我々は全盛時代、トヨタ7の一番最高の時に乗っているのでどうしても
今日の車はかなり当時よりパワーダウンしていたと感じました。
いろいろなところのガタ付きは30数年の年月が経っているのだからしょうがないとは思っています。
トヨタ7は30数年前のものですが、私自身の身体は今でもハンドリング感覚とか車の応答性などはしっかり覚えています。例えばミッションのシフト感覚はちょっと違っていました。しかし、V8エンジンのトルクは流石だと感じました。
それから当時を良く知る方々はお気づきでしょうが、リアタイヤ径は当時の方が大きいです。

私は思うのですが、トヨタ7という車は、2座席でカウリングを付けただけのレーシングカーで、CAN-AMのレースの精神、最高速度の最高馬力の精神というか、後は無制限だったCAN-AMレースのために生まれたと言っていいこのトヨ タ7を今さらながら凄い車だったと感じずにはいられませんでした。

ところで、今回走ったトヨタ7はNAエンジンで600馬力のものですが、当時あったターボ付きモデルは公称800馬力でした。しかし、この公称馬力はウソ800馬力で、試験に携わっていた私はネット854馬力は確実に出ていたことを知っ ていました。実際はターボ圧の調整ネジを回せば1000馬力も可能でしたが耐久性はかなり悪くなります。
当時のデータでエンジンだけでの12時間テストをした記録を私は持っていますから確かです。さらにそれはおさえ気味の馬力でしたから・・・。

今後私が望む事は「ミッレミリア」におけるメルセデス・ベンツのスターリング・ モスと300SLRのように会社を上げての体制を望みたいと思っています。
モスは全力で古い300SLRを走らせています。
今のトヨタも1部のエンジニアがトヨタ7を手がけるのではなくベンツのように歴史をもっと前面に出せるようになれば世界がもっと認めるようになるのではと考えています。
(略)


TeamToyotaAgainより;TakeOffToyota7 )
また、以下は2000年のグッドウッドを取材した林信次氏の記だが、このフェスティバルにて以前は事故が発生していたそうである。

イギリス南部グッドウッドでの「フェスティバル・オブ・スピード」(6月23−25日)に行ってきた。このイベント、いったいどう説明したらいいのだろう。一言 で言うなら、古今東西の歴史的レーシングカー数 百台が一堂に会したのを眺めつつ、その半数は本 気でタイムアタック走行をし、各種のアトラクションや出店も楽しめるという、レーシングカーをテーマに した一大ピクニックなのだ。

(略)

第1回は93年の開催だから、今年はまだ8回目
(筆者注:2000年)。にもかかわらず、世界中の自動車メーカーや 有名レースチーム&関係者がこのイベントに一目置くのは、主催者マーチ卿(40代半ばの若さ)のお爺さん(故人)がその昔、50年代にグッドウッド・サーキットを作り(今大会の会場から数kmの 所に、一昨年、30数年ぶりに復活した)、イギリスのレース産業発展に貢献したという歴史的背景もある。

世界に一台しかないような貴重な名車・珍車もパドックに無造作に置かれ(ロープで仕切られて立ち入り不可能だったのはホンダと現役F1チームのみ)、それらが果敢にヒルクライム走行を行なう。買えば数億円もするだろうマシーンがごろごろしているこんな中にあったら、オーナーたちの低レベルでの車自慢・高価自慢にもなるまい、などと、つまらぬ考えを抱いてしまうのは、貧乏性の日本人の悪い癖か。でも、タイムアタックしてぶつけて壊しちゃったら、修理するのはたいへんだろうな。

和やかで賑やかな今大会、実は土曜日夕方に悲劇が発生していた。ロータス63(69年製の ユニークな4輪駆動F1)がゴール地点のゲートに激突、ドライバーとフラッグ・マーシャルが亡くなったのだ。

日本だったら、イベントの即刻中止や翌日の競技内容の変更がなされたり、各種マスコミから 批判の声が上がるところだろう。しかし、グッドウッドは違った。マーチ卿の正式コメントとして 「我々は参加者と観客の両サイドから安全性に関してできうるすべてのことをしてきている。英国の競技統轄団体とも密接な関係を保ち正しい安全基準を満たしていると確信している。日曜の競技はすべて予定どおりに行なう」と発表した。

もちろん、遺族への哀悼の言葉も添えられてはいた。しかし、安全にはベストを尽くしているのだ、という自信に満ちた言葉は、他の参加者が抱くかも知れぬ不安を拭うし、こういった危険性をも受け入れたうえでのお祭りであることを、会場内のすべての人々がちゃんと理解しているよう だった。
非情だ、鈍感だ、と言いたがるのは、きっとモータースポーツに対する認識が幼い国の人々かもしれない。

そして日曜日は、何事もなかったかのように、10万余の人々がピクニックを楽しんだのだ。その 中に自分も居られたのが幸せだった。

林信次のサーキット徒然草 第9回 より引用)
そして以下は、2003年のグッドウッドでトヨタ7をドライブしたダ・マッタ氏の記である。

“TOYOTA 7 Turbo”
車名:トヨタ7ターボ 年式:1970年

3リットル、5リットルと進化したトヨタ7の究極のマシン。Gr7仕様としては世界初のターボチャージャーを搭載。800馬力を発生し、620kgの車体を 350Km/hまで引っ張った。しかし、実戦を戦うことなく1970年の富士1000Km レースでエキジビション走行。

ドライバー:C.ダ・マッタ (パナソニック・トヨタ・レーシング)
「トヨタ7・ターボは、33年も前のレーシングカーとは思えないほど“ジェントル”だった。慣れない右ハンドル、左ギアチェンジだったがとても楽しく運転出来た。ものすごくパワフルで、トヨタが、当時からチャレンジ・スピリットに満 ち溢れていたことを実感した。
貴重なレーシングカーなので、無理せず、“ファン・トゥ・ドライブ”を充分に楽しんだ

“TOYOTA TF103”
車名:トヨタTF103 年式:2003年

パナソニック・トヨタ・レーシングが並み居る強豪を相手にF1GPを転戦。 0.パニスとC.ダ・マッタの2人のドライバーが激戦の中でポイント獲得へと挑む。参戦2年目の今シーズンは、一気に戦闘力も向上。来週行われるイギリスGPでの活躍が期待される。

ドライバー:O.パニス (パナソニック・トヨタ・レーシング)
「合同テストを終えて駆けつけたので、1日だけの参加だったが、初めての“グッドウッド”はとても楽しめた。今まで経験したことが無いほど多くのファンと身近に接することが出来、2000人位と写真を撮り、サインをしたような気 さえしている。
このコースでは、TF103のほんの一部しかアピール出来なかったが、パワーは分かってもらえたと思う」

Crash net Japan より引用)
これらを読んで考える限り、33年前の車をやっとレストアし、走行可能にこぎつけた状態でもって「1000psもあるんだからホイルスピンして楽しませろ」という意見は、筆者にはとてもモータースポーツについて造詣が深いとも車が好きだとも思えないのである。

そして最大の疑念は、現地には斎藤副社長はじめトヨタの関係者も来ているのであるから、このような憶測ではなく「何故全開走行しなかったんですか?」という質問くらいはできるはずである。それをしていないということは、できなかった何らかの事情があるのでは?、と読者は考えてしまうのだ。


● 宗一郎マンセー

ということで、国沢氏は13日の日記で、ご自身のスタンスをあからさまにさらけ出してしまっているのである以下その箇所を引用する。

それにしても本田宗一郎さんて凄いと思う。1954年にマン島TTを見るや「ここに出る!」と宣言。考えて欲しい。当時のホンダ製バイクと言えば、OHVばかり。 経営も危機的状況にあった。なのにマルチシリンダーのツインカムも登場し始めた2輪GPへ出ていこうとしたんだから驚く。

この当時のエピソードは、佐藤正明著「ホンダ神話 -教祖の亡き後で-」(ISBN:4163501207)の中で克明に描かれている。これは故・本田宗一郎氏ではなく、実質的な経営者であった故・藤沢武夫氏の発案であるようだ。以下、同著の該当箇所を要約する。

当時、ドリーム号、ベンリイ号、カブの不具合にてホンダの評判は大幅に低下し、危機的状況に陥り始めた。労働争議も発生し、社内でも嫌な雰囲気が蔓延し、社員の士気は低下した。商品自体の欠陥は解消され、経営も何とかなる目処は立ったが、社員の意気高揚の課題だけが残った。これを解決するには何かどでかいアドバルーン(目標)を打ち上げ、社内を団結させるしかない。
そこで藤沢は、宗一郎が以前より「海外のレースで勝ちたい」と言っていたことを思い出し、宗一郎に言った。「本田さん、あんたマン島レースに出てみる気はないかい?宣言文はあたしが書く」と。宗一郎は「マン島レースといや世界一のレースじゃねぇか。面白ぇ。やってやる」。
そして藤沢はマン島TTレースへの参戦宣言文を本田宗一郎の名で書き、社内報に載せた。宣言文の形をとってはいるが、実質的には社員へ向けた檄文である。そして手形の決済日の6月、藤沢は宗一郎をマン島レース視察に送り出した。これは宗一郎に経営上の無用な心配をかけまいとする目的と、「社長が外遊してるんだからホンダはまだ大丈夫だ」と社内外に思わせる作戦である。
しかしマン島視察から帰ってきた宗一郎は、世界一級のレースのパワーに圧倒され、ショックを隠せなかった。「優勝宣言までしてしまったが、あんなパワーレースとは思わなかった。果たして勝てるのか」と暗澹たる気持ちであったという。優勝車は現在のホンダのパワーの3倍(リッターあたり150ps)にも達していたのだから。


これが一部には、「この宣言文は宗一郎氏が蜜柑箱の上に乗って発言した」とかいう風に誇張されて伝わっているのだが、これは藤沢氏が宗一郎氏を神輿にかつぎあげた作戦が一人歩きしていったせいであろうと思われる。

さて、上記の国沢氏の日記の明らかな間違いはお分かりになるだろうか。マン島TTレース参戦宣言文が本田技研の社内報に掲載されたのは1954年3月20日。宗一郎氏がマン島TTレースを初めて視察したのは、同年6月であり、参戦宣言の後である。そして宗一郎氏がマン島TTレースを自分の目で見て、「あんな宣言出すんじゃなかった」と少し後悔した、という類のエピソードはそれこそ吐いて捨てるほど転がっている。

しかし国沢氏は、宗一郎氏はマン島レースを見て参戦を決めたと書いている。一般のホンダフリークであればこの程度であれば些細なミスだが、評論家たる国沢氏にとってはあまりに大きなミスである。というのは、国沢氏は、本田宗一郎氏についての正確な知識を持とうとするジャーナリストとしての探究心以前に、
宗一郎神話に呑み込まれてしまっている、ということを意味するからである。

この発言が、今回のグッドウッドにホンダの接待にて参加したせいなのか、また現地でのホンダ人気も手伝ってのことなのか、それは読者には分からないことだが、少なくとも冷静さを欠き、ホンダに対して必要以上の多大な賞賛を贈っていることは間違いない。

そして相対的にトヨタが下がってしまったのである。それでも普通に書いておけばまだ問題はないにも関わらず、国沢氏は一方の評価をあげると、比較対象とする他方を極端に辱めるという評論スタイルをとりがちで、今回も見事にそのパターンとなってしまったのではあるまいか。

もう1つ考えられる要因(かなり低レベルの発想だが)は後に回す。

● 何をしに行ったんですか

今回のグッドウッドは、恐らくあるメーカーの接待であろうと思われる。同行した松下氏の日記からもそれがうかがえる。
英国での最終日は半日ロンドン市内観光でした    2003年7月14日

今日は英国での最終日で、パワーボートに乗るか、ロンドンの市内観光にするかという選択だったのですが、私は今回が初めてのイギリスだったので、お上りさんとしてロンドン市内観光を選択しました。といっても半日程度の短い日程だったのですが、ウェストミンスター寺院やロンドン塔、タワーブリッジ、大英博物館などを駆け足で見て回りました。ロンドン市内の ガイドをお願いするため、米村会長を誘ったのですが、「俺はパワーボートが良かった」とボヤくことしきりです。(以下略)

(All About Japanより引用)

筆者注: 文中の米村会長はJAJ(日本自動車ジャーナリスト協会)会長の米村太刀夫氏日本カーオブザイヤー選考委員
また一昨年のグッドウッドには、伏木氏がH社の広報から誘われて同イベントを訪れている。同氏の日記より引用する。
2001年7月6日

ポーツマス。定刻12:00発のJAL401便は1時間のディレイだった。また新宿で仕事だという長女を送るという安請け合いをして、S2000で一路東名〜首都高3号ルートを上ったのであるが、これが予想外の渋滞模様。
(略)
ヒースローで通関後再び顔を合わせると、『哲ちゃんが迎えに来ているんだ』。『?』。しばらく して現れたのは津川哲夫さんだった。以前はBCを中心に活動していた者同士ということで ちょくちょく会う機会があったのだが、いやしばらくぶりでした。
(略)
ちなみに今回の面子は、H青山本社広報のO島部長とM本F1担当、それに古くからの知り合いの同業のS木N男である。
そもそもの発端は『グッドウッドに行くので、一緒しませんか?』 という唐突な問い合わせがあって、『ん?』と訳を尋ねると、とにかくそういうプランがあるので 『yesかnoか?』と漠然とした問いかけなのだった。ま、多少目的と背景は聞いたが、わたしの 直観は即座にyesと答えていた。

そもそも
グッドウッドの何たるかを知らずに引き受けるのもどうかしているが、その後に続くオプショナルツアーを考えると、なにがしかの後ろめたさを覚えたのは事実である。

ま、詳細は明日以降の珍道中で明らかになることだろう。


7月7日

グッドウッド。昨夜はたしか10時にホテルを出ると決めていた。GOODWOOD は、今回の4人が4人とも初めて。わたし以外は雑誌などでその内容やスケールを知っていたようだが、もともと今回の旅には成すべきノルマなど存在しない。

ノブオなどは、HREに赴任したイトヤンに日本酒の一升瓶を贈ることがその第一の目的といった雰囲気だった。しかし、実際に 目の当たりにしたGOODWOODは、想像したよりもずっとスケールが大きく、内容的にも充実したものだった。

(以下は動遊倶楽部 2001年7月の日記を参照のこと)
これ以上については転載になってしまうと思われるのでここで止めるが、伏木氏も最初「なんだそれ?」という印象をもってこのイベントに向かったことがよく分かる。しかし、上記リンクより日記を実際に見ていただければ分かるのだが、レポートは日記という範疇でという条件でも情報が詰まっている。まあオプショナルツアーというものがナニではあるが、そこはそれとしておく。

これにいたく感動した伏木氏は、翌2002年もグッドウッドに出かけている(オプショナルツアーはなかったようである。為念)。そして2002年のグッドウッド取材では、雑誌の記事としてもちゃんと書かれている。つまり伏木氏は接待で訪問したにせよ、その結果はちゃんと自分の仕事として評価される形で遺しているのである。今年もどうやら出かけたようであるが、それが接待によるものかどうかは不明である。

しかし、国沢氏の日記からは取材旅行の片鱗も見えない。1930年代のレーシングカーが全開で走っているという記述は構わないが、エンスージャストが知りたいのは
その車は何だったのかということではないか。車がドリフトしようがタイヤスモークをあげようが、それはショー的な演出にすぎず、グッドウッドのフェスティバルの主目的ではない。それなのにただパフォーマンスに目を奪われているだけのような記述は、場の雰囲気を伝えているとはとても思えず、ガキがはしゃいでいるだけのようである。それはジャーナリストの視点とは対極に位置するものではあるまいか。

13日の日記に至っては、ホンダを褒め称えているだけで、グッドウッド固有の情報は爪の先ほどもない。まるでホンダオタクが書いているようにマンセー、マンセーの連続の文章で、これが評論家の書く文章かと思わずにはいられない。
逆に、トヨタに対するイチャモンは何か恨みでもあるかのようであるし、反対に日産にはラブコールを送っているが、
何故日産なのだろうか?海外のレースとしては日産だけではなくマツダもIMSAのRX-7、ルマンの787などで知名度は負けていないはずだが。

いずれにせよ、このグッドウッドツアーでの取材(?)はBCで記事にするそうであるから、それを見ない限りは取材の最終成果は判断できないのだが、松下氏も宝島に記事を寄稿するらしいから、同一条件でどれほどの違いがあるか比べてみるのよいかもしれない。

● 再度、李下に冠を・・・

しかしあらためて思うが、国沢氏はご自身の発言に関して実に迂闊である。(故意かもしれないが…)

国沢氏は2003年になり、「おじさんのためのバイク選び」と称してホンダのバイクばかりを借りまくっていたりする。肝心の内容に関しては、筆者の個人的感想としては正直どうでもいい内容にすぎない程度の代物である。
だいたいXL230を紹介して「セル付で便利で安価」ならば、比較対象としてのセロー225は外せないであろうし、オジサン向けであれば、最近生産中止となったGPz900R Ninja(まだ作ってたのか、と筆者も驚いた)や、ツアラー系、アメリカン系あたりも取り上げた方がいいと思われるが…。
まあそれはそれとして、1日1万アクセスはあるとはいえ、大半が中高生〜若者と思われる国沢氏の頁にオジサン向けバイク試乗記事を載せて、どれほどの販促になるのか疑問である。それでもバイクを次々と貸しつづけるホンダは国沢氏に対し多大なる便宜を図っていると断言できよう。

更に国沢氏はイギリスにてパワーボートの同乗試乗を選んだが、氏のページに掲載したパワーボートの側面にはしっかり「HONDA RACING」と書かれている。まあこれでどこのメーカーの接待であるか読者にはバレバレである。

加えて松下氏はグッドウッドからの帰国直後、ロサンゼルスに新型プリウスの試乗に向かったが、国沢氏はそのプリウス試乗ツアーの12名には選ばれていないようである(グッドウッド→L.A.は松下氏と河口まなぶ氏のみ)。

ご自身はハイブリッド親方と自称し、ハイブリッドに関する著書も出しているにも関わらず、最初のプリウスの試乗会には呼ばれなかった、ということだ。

そういう環境下において、「ホンダマンセー!」「トヨタはカッコ悪い」(しかも、トヨタの本社サイドのみ批判しているように見える)という主張なのであるから、これらに関連づけて考えるな、と言う方が難しい。

狙ってやっておられるのか無意識なのかは分からないが、もう半ば開き直りのようにも見える。まあそれも含めて読者を楽しませようという企みであれば、筆者は国沢氏の身体を張った主張に脱帽するしかないのだが。

● ところで、

国沢氏が1000トゥグルグを賭けていた川本氏はRA27XかRA30xを走らせたのであろうか?もし走らせなかったのであれば、賭けた1000トゥグルグは一体誰の手に?

誰と賭けをしたのかという問題もあるが、あのTOPの書きようからすれば当時のkunisawa.netの読者全員と賭けたとも考えられるので、そう仮定すれば総額100万円は下るまい。

とはいえ筆者は国沢氏の日記で1000トゥグルグ以上楽しませてもらっているので、請求するつもりは全く無いのである。もっともこんな賭けを真にうける方がどうかしているのであるが。
第4章TOP
2003.07.23 α版
2003.08.29 1-0版