7−5 一番得するのは国です      −青色発光ダイオード訴訟−
筆者が大学を卒業する時、筆者は恩師より以下のような言葉をもらった。

「技術者は、π型人間(下図C)にならなければならない。
I型人間(下図@)は、専門分野を深く掘り進めるが、まったく他を見ていないので知見がなく、ただの堅物になってしまう。
I型人間が極端になるとL型人間(下図A)になる。こうなってはひっぱり出そうとしても出てこなくなって、他の意見をまったく聞こうとしない。これは研究者が陥りがちだ。
理想はT型人間(下図B)、これは得意な専門分野を掘り進めながら周りを見渡していることである。もっとよいのがπ型人間で、専門分野を2つ持ち、周囲を見ながら互いを掘り進めることだ。これなら他方の専門分野が廃れても生き残れるし、また互いに応用も利く。」
大学を出て10年以上経つが、筆者はいま何型の人間なのか、折にふれてふと振り返ってみている。固定概念にとらわれていないか、周りをちゃんと見ているか、専門分野以外への挑戦を怠っていないか…。
筆者のπ型人間への挑戦はまだまだ先は長いと思われる。

● 発明の対価が200億円

2004年1月30日、日本国内を「あっ!」と言わせるほどの、裁判の判決が下った。

(1/30)青色LED訴訟、日亜化学は中村教授へ200億円支払いを

 青色発光ダイオード(LED)の開発者として知られる中村修二・米カリフォルニア大サンタバーバラ校教授(49)が、勤務していた日亜化学工業(徳島県阿南市)に発明の対価の一部として200億円を求めた訴訟の判決が30日、東京地裁であった。三村量一裁判長は発明の対価を約604億円と認定し、請求通り日亜に200億円の支払いを命じた。

 同種訴訟での発明対価としては、光ディスク関連特許について東京高裁が29日に日立製作所に支払いを命じた1億6300万円を超え、過去最高額を大幅に更新した。

 訴訟の対象となっていたのは、中村氏が発明し、青色LEDの基本技術とされる「404特許」。2002年9月の中間判決は「職務発明のため特許権は会社に帰属する」との判断を示し、その後は日亜側が中村氏に支払うべき発明対価の額が争われていた。


NIKKEI.NETより引用
この訴訟と判決に関しては、これ以前もこれ以後も様々な議論が起こっているが、中村氏の業績と様々な金額のみが独り歩きしていて(しかもマスコミがやたらとセンセーショナルに扱う)、 報道のみの情報ではこの騒動の本質を掴みきれない。 そこで、筆者が分かる範囲でこの問題を、できるだけ客観的に述べることとしたい。

1970年代から、当時名古屋大学の教授であった赤崎勇氏は、GaNを使用した青色発光ダイオードの研究にとりくみ、1986年にその基礎を開発した。その講演を聞いた豊田合成(株)の社長は赤崎氏とコンタクトをとり、共同で開発に乗り出した。
その証拠として、科学技術振興機構昭和61年(1986年)採択にGaN青色発光ダイオードの製造技術として赤崎氏と豊田合成(株)の名前がある。これは、大学や公立の研究所で得られた、国民経済上重要であろう研究で、企業化が困難なものを同機構が民間企業に委託(開発費を支出)して開発を行うものである。つまり、窒化ガリウムを使用した青色LEDの開発は豊田合成(株)が先行していたわけである。1989年には低輝度ながらも開発に成功し、1991年に同機構から開発の成功認定を受けている。参考:源流/現流

他方、日亜化学工業は、徳島県にある蛍光体などを製造していた中小企業である。 地元では比較的有名であったようだが、全国的にはまったくと言ってもよいほど知られてはいなかった。

その会社に中村氏が入社したのは1979年。基礎研究を続け、1988年には米国に研究員として留学している(これは当然会社のお金であろう)。そして
その翌年の1989年に窒化ガリウムを利用した青色発光ダイオードの研究に着手している。これは赤崎教授が低輝度ながら青色発光ダイオードの開発に成功した年である。中村氏が赤崎氏の論文を見てインスパイアされたのかどうかは不明ながら、この経緯を考えると「青色発光ダイオードの発明者」という称号をマスコミが中村氏に与えているのは、個人的にはいささかの違和感を感じる。

以下のページを参考にしていただきたい。
業績記

「窒化ガリウム系化合物半導体による高光度、長寿命の青色発光素子の実現に対する基礎的且つ先駆的貢献」

赤崎勇博士は、

永年にわたって化合物半導体のプロセス研究を推進して、結晶成長の基本的技術を確立した。
1970年代の初めに、青色発光素子として GaN の研究に着手した。
研究当初、GaN 発光素子の作製にとって最も大きな問題点は、GaN の高品質結晶育成が難しいことであったが、1986年に、「低温堆積緩衝層技術」を開発してこれを解決した。
従来、GaN は通常の結晶育成ではn型伝導性を示し、p型結晶を得るのは困難であるとされていたが、1989年に、電子線照射法を導入してp型 GaNの結晶化に世界で初めて成功し、pn接合を形成して、青色発光ダイオードを実現した。

中村博士は、
1989年から、GaN の研究を開始し、1992年には、p型 GaN を一度に容易に大量に形成することの出来る熱処理法を開発した。
同1992年に、Two Flow 法と呼ばれる
新しい結晶育成法を開発して、GaN膜の結晶性を飛躍的に向上させた。
1993年には、InGaN系の高品質単結晶の成長を行って、世界最初のInGaN系青色発光ダイオードを製品化した。
1995年には、世界最初のInGaN系青紫色半導体レーザーを開発し、翌1996年にはその室温連続発振に成功し、その後連続発振数千時間を達成した。


NEC News Release
より引用
その中村氏の、当時の研究中のエピソードはご本人へのインタビュー記事で見ることができる。
技術者よ、勇気を出して 会社をやめよう 


なかむら・しゅうじ●1954年、愛媛県生まれ。
79年、徳島大学大学院修士課程修了後、日亜化学に入社。
88年より1年間、フロリダ大学で客員研究員を務める。窒化物系材料を使用した発光デバイスの研究開発に先駆的に取り組み、 93年、20世紀中には不可能と言われていた高輝度青色発光ダイオード(LED)の開発に世界で初めて成功。
95年には緑色LED、白色LEDの製品化、窒化物系紫色半導体レーザーのパルス発振に世界に先駆けて成功。 99年、紫色半導体レーザーを実用化。同年退社し、カリフォルニア大学サンタバーバラ校材料物性工学部教授に就任。
仁科記念賞、大河内記念賞、朝日賞をはじめ、国内外の名誉ある科学賞を多数受賞している。

(略)

個人対企業の争いは個人にとって本当に大変なんです。今回提訴した経緯も、私がかつて勤めていた会社のやり方があまりにもひどかったからです。

私が日亜化学を辞める時点で、会社側は6000万円の特別退職金の支払いと引き換えに秘密保持契約にサインするよう求めてきました。
契約書の内容は、青色発光ダイオードの開発技術である窒化ガリウムに関する研究と特許の出願を、今後3年間しないというものでした。これは研究者としての私の手を縛る内容です。だからサインしなかった。

すると昨年12月に日亜は、
米国の企業に日亜時代の企業秘密を私が漏らして特許侵害をしているとして訴えてきた。日亜にあれだけ貢献し、特許も取って、それで売り上げも伸ばしているのに、何で私が訴えられるのでしょうか。

 日本の企業技術者は、会社に縛られ会社のために働きながら、その見返りがほとんどない。私のケースも、特許出願で1万円、特許を取得してたったの1万円です。その話をアメリカの研究者にしたら、彼らはびっくりして『それではスレーブ(奴隷)ではないか』と言いました。

(略)


中村氏が発明した青色発光ダイオードは、世界初の製品だった。しかし完成に至るまでには日亜との衝突の連続だった。世界の研究動向は、中村氏の追求していた窒化ガリウムから次々と撤退し、ほとんどがセレン化亜鉛の研究に向かっていた。しかし、中村氏は諦めなかった。

「1990年ごろのある日、大手半導体メーカーの偉い人が来て、会社の偉い人に『わけのわからないものを研究しないで、ガリウム・ヒ素の高電子移動度トランジスター(HEMT)の研究をすると用途が伸びる』と進言したそうです。
 それを受けて
会社の上層部は、私に窒化ガリウムの研究をやめて、HEMTの研究をするよう命じました。しかし私は、それを無視して自分の方針どおりにやりました。1カ月くらい、『HEMTの研究をしろ』という命令書が机の上に連日置かれていましたが、私はそれをことごとくゴミ箱へ捨てました。そのあとで、やっと青色発光ダイオードの試作に成功したのですが、まだ製品になるようなものではありませんでした。

(略)


私は青色発光ダイオードの試作に成功したという論文をアメリカで発表しました。会社では、論文を書いて発表するのも特許の申請も禁止していたのですが、私は内緒で書いて学術誌に投稿したり学会で発表したりしていた。その代わり、論文を出す前に特許を出していました。特許部の若い社員に出願するように言って、こっそり出させていたんです。
出願者は会社だから、特許になれば権利は会社のものになる。論文発表をしている後ろめたさを帳消しにする気持ちもありましたが、会社への忠誠心もあったんです。

 ところがアメリカに出した論文の内容が、さる関西の大手メーカーの耳に入って、徳島の本社に問い合わせがあり、それでばれてしまったんです。毎朝出勤すると、机の上に「上司の許可なく論文を投稿することを禁ず」という置き書きがしてある。私は無視した。成功して会社に利益が出れば問題ないではないか、という考えでした。こうして、ほとんどやけくそ状態で開発した青色発光ダイオードは試行錯誤を繰り返し、93年の11月に自分でも納得のいく青色発光ダイオードを作ることに成功しました」
(略)


「日亜を辞めたのは、大企業になったから、という理由もあります。
従業員が増えればそれなりのルールが必要になりますが、そういうものに縛られず自由に研究がしたかった。辞める少し前、窒化物半導体研究所をつくって、そこの所長になってほしいといわれました。そこで窒化ガリウム関係の電子デバイスをやれということでしたが、私はアメリカでやっている研究の後追いは気が進まなかったので辞退した。新規の研究なら喜んでやりますと言ったのですが、それは認められないまま1週間後、私の所長就任が勝手に新聞発表されてしまったんです。
(略)


 今後、青色発光ダイオードに関しては、発光効率を上げる研究などが残されていますが、私はこの分野でやることはすべてやったので、別の全く新しい素材で全く新しい研究をしたいと思っています。
人がやっていることを真似したり後追いすることに魅力は感じません。

技術者よ、勇気を出して 会社をやめよう より引用
これは、企業に勤めたことがない方や、一部の方にとっては武勇伝に聞こえるかもしれないが、多くのサラリーマンにとっては驚きであろう。彼は、会社(社長)の業務命令を無視し、会社の器材を使用して研究を続け、会社の金で特許出願をしていたわけである。

もっと驚くことが、 中村教授の上申書を見れば書いてある。彼は会社からの開発費が止まった後、研究を続けるにあたっての資材の調達を、「
別の調達名目で会社にごまかして購入」していたと裁判官に証言しているのだ。
このような行為など、ばれたら良くて始末書で、懲戒解雇となっても文句は言えまい。

こうした結果、中村氏が高輝度の青色発光ダイオードの開発に成功したのが1993年であり、特許出願もされている。その後、会社もこれに注目して研究を続行し、数々の製品を作って行った。
中村氏は後日、100万円の特別報奨金をもらい、年棒も倍額となったということである(これはマスコミの報道ではほとんど出て来ない点である)。

一方の赤崎氏との共同開発をしていた豊田合成であるが、日亜化学に少し遅れること1995年、同様に高輝度(2000カンデラ)の青色発光ダイオードの開発に成功し、量産化する。 しかし特許を先んじていた日亜化学が反発。日亜化学は青色発光ダイオードに関する特許のライセンスを一切他に許可しない方針であったため、豊田合成を特許侵害で提訴。逆に豊田合成も特許侵害で日亜化学を提訴する。また日亜化学は海外メーカーまで特許侵害で提訴、かくして40もの泥沼の訴訟合戦になる。 豊田合成と日亜化学の訴訟は1996年から6年間も続き、2002年9月に両者はようやく和解したのである。

上にもあるように、中村氏は1999年、研究所の所長のポストを会社から打診された。しかし彼はそれでは自由に研究ができないと、それを断った。日亜化学は中村氏が退社するにあたって、青色発光ダイオードの技術が社外に漏れることを危惧し、中村氏に上記の提案(6,000万円とひきかえに窒化ガリウム系の研究を3年間しない)をしたのだが、中村氏はこれも拒否し(拒否したので退職金は出なかったようであるが)、渡米。

そして日亜化学は中村氏を特許侵害の恐れありと2000年12月に訴えた。それを受けて中村氏は「特許の権利は発明者にある」と逆に2001年8月23日、逆に提訴したのである。



いかがであろうか。200億だけが独り歩きしているこの騒動の、少し違った面が見えてこないであろうか。
地裁判決では中村氏の圧倒的勝利であるが、とはいえ中村氏が(道義的に)全面的に正しいという結論を下すには躊躇してしまう方も多いのではあるまいか。そして、問題が「最初から2万円とかじゃなくてもっと報奨金を渡していれば・・・」というわけでもないことも。

これは筆者の私見だが、問題の本質は中村氏のコミュニケーション不足にあると思われる。
会社の重役が「世界の趨勢はこっちだから、こっちの研究をしろ」と言っているのに拒否し、勝手に自分の好きな研究をやっていたというのがそもそもおかしな点である。
公的研究機関であれ企業であれ、研究者の大切な仕事として資金調達というのがある。そのため、研究者は時として研究以上にプレゼン能力を磨かざるを得ない。 彼はここで
自身の研究の重要性を会社にアピールすることに失敗しているのである。

それに、もし仮に
窒化ガリウムの研究が本当にしたいのであれば、その時点で日亜化学を辞めて先行している豊田合成に自身を売り込んで研究を続ける道もあったであろう。1990年ということであるから、バブルもまだ完全にはじけてはいない頃で、中途採用もまだ道はあったはずだ。
それをせずに日亜化学に居座って冷遇されたのだから、どのような事情があったのかは分からないが、彼の責任がまるで無いとは言い切れまい。
また、彼は会議にも欠席して研究をしていたことも多かったようである。これなど、自ら会社とのコミュニケーションを絶っていることになり、組織にいる人間としては極めて不適切な行為である。

「人はだれでもエンジニア −失敗はいかにして成功のもとになるか−」 (ヘンリー・ペトロスキー著 鹿島出版会) という本のまえがきには、以下のような文言がある。

「エンジニアが作る一番重要なものとは、人である」

筆者は入社間もない頃、神保町でタイトルに惹かれてこの本を入手し、読んだのであるが、一番衝撃を受けたのはここである。技術のことばかり見ていたのではいけない、人間は人間関係を構築し、後継を育てることが大切なのだと−。

しかし中村氏は、とにかく研究だけにこだわってしまったようである。それが会社と軋轢を生むことになったであろうことは想像に難くない。

もう1つ、上のインタビューでの中村氏の矛盾に読者諸氏は気がつかれたであろうか。
中村氏は「窒化ガリウム系の研究では、もはややりたいことはない」と退職前に言っている。しかし、退職にあたって、
「窒化ガリウムの研究はしない」という同意書へのサインを断っている。その理由を「研究者としての自分を縛るものである」と理由を述べているが、
「もうやりたいことはない」と宣言して研究所の所長の座を蹴ったのに、「じゃあそれを明文化してくれたら6,000万あげます」と日亜化学が言ってるのに拒否したのは何故なのか

筆者などは、どうしても下衆な勘繰りをしてしまうのであるが・・・。

この件に関しては、ある大学の研究員の方が以下のように論じている。これは裁判が始まった頃に書かれたものであるが、比較的冷静な目で見ているのではないかと筆者は感じる。
青色発光ダイオードと発明者の名誉欲

 青色発光ダイオードの発明者が裁判を起こした。それに乗じて、「日本では研究者は不遇」論がにぎやかになってもきた。でも、ちょっと冷静になって考えてみればなにかがおかしいのだけど、踊っているみなさん、大丈夫ですか?
(略)
インタビューでは、「青色LEDを発明したら、金持ちになるとか偉くなるとか、ということを期待したのにそんなことはまったくなかった」と歯をむき出しにしてアピールしていた中村サン、でも、発明の結果、研究所の所長になったんですよねぇ。所長になっても給料あがんなかったのかな? 所長という肩書きがつくことは一研究員にとって「えらくなった」ことにはならないのかな? 
(略)
もし、会社に告訴されたほうの裁判から世間の目をそらすための「20億円裁判」だったとすれば、と考えたほうが、この本人によるセンセーショナルな「あおり」もわかりやすくなる。
権利社会のアメリカで、大学教授が企業からの情報持ち出しで告訴された、なんていうのは立場と名誉失墜に即座に直結するだろう。あの年代の考えそうなこと、とすれば、即座に会社のほうを訴えて「本当は会社のほうがもっとワルイんだもーん」とみせかけるくらいだろうし、そうすると…ああ、なるほど、と。
(略)
 そもそも、「研究者」という言葉が一般に連想させる内容は、おそらく「企業人」とはかけはなれているだろう、ということがひとつ。研究者は自らの研究のために研究し、企業人は自らの属する企業の利益のために働く。
企業人の滅私奉公は、企業での終身雇用などによってバランスされているといえる。企業の研究所での「発明」は、したがっていうまでもなくその企業の利益のためになされるものである、というのが本質なのだ。
この部分について、終身雇用がくずれてきた現在では見つめなおす必要があることも確か。たとえばその解決策のひとつが企業内ベンチャーである。
企業の研究所でなした発明を、あたかも外部の人間が企業に売り込むように「買い取って欲しい」のであれば、それについてのマネジメントを含めた責任を負いつつかかわりをもつしかない。いいかえるならば、企業人としての人生は、その責任を当該企業が肩代わりしてくれるシステムである、ということである。
もちろん、企業の研究所でなされた「発明」に必要だった環境もまたその企業によって提供されていたものであることも忘れてはならない。市井の一発明家が企業に自分の作品をうりつけるのとはわけが違う、ということだ。

 もちろん、なされた「発明」がその企業の利益になるかどうかは、企業自身の先を見る目と時代のタイミングに大きく依存する。だから、発明それ自体への「報酬」が後知恵で見たときに不当に低くみえる、ということも起こる。
このあたりは
経営センスもかかわるだろうけれど。
今回の場合、中村氏が青色発光ダイオードを発明した時点で、将来の売り上げが確実に想起されてたのかどうか。どうもされていなかったように思うのだが、だとするとそれは
企業に対して自分の発明の将来性をアピールしきれなかった中村氏の能力にも問題があったのかもしれない
もしかすると中村氏自身が自分の発明の本当の価値を当時はわかっていなかった、という可能性すらある。くりかえすけれど、「そういうことのないように」自己管理できなければ企業とはわたりあえないわけだ。
当時、2万円しかもらえなかった、と悔しそうにかたる中村氏は、その2万円をもらったときに会社に抗議したのだろうか。五桁違うぞ、と… 従って中村氏が有意義な裁判をおこしたければ、企業内での発明とそれによる成功に対する保障についての約束作りをめざすこと、ということになるのだ。でもその場合、企業を退社していたら保障もなにもないだろう、というのもまた常識でしょうけどね。

 従って、
中村氏の「みぐるしさ」はやはりすべてが事後である、という点につきる。会社をやめた「後」、会社に告訴された「後」… この20億円裁判、見えているものが全てではない、ということだ。
(略)
 中村氏は、研究者の待遇をうんぬんする。でも、それは、彼が「研究者は技術者よりも階級が上」と盲信していることに起因する「技術者蔑視思想」そのものでしかない。だからこそ、彼は会社を捨てて、アメリカに脱出したのだしね。つまり、「日本の研究者の立場を悪くしている張本人」こそ中村氏自身だ、ということだ。ここに気がつかないと、いつまでも虚偽の情報に躍らされてしまうことになろう。もしかするとこれもまた違和感の源だったのかもしれない。
 中村氏はノーベル賞候補、とかいわれて有頂天になっているけれど、ノーベル賞がはたして「発明者」をさしおいて「応用者」にあたえられるものだろうか… もっというと、「研究者」とは中村氏ほど名誉やら富やらに「執着しないのが常識」なんではなかろうかねえ。赤崎教授と共同開発していた企業は、中村氏のいた会社を訴えている。でも、
赤崎教授がなにもいわないのは、それこそ彼が「研究者」であって「技術屋」ではないから、ということだ。では、中村氏はいったいナニモノか、ということだけど、もう、いうまでもないことかもしれないね。

(略)

mic-a's page の2001年9月 より引用)

とはいえ、会社の社員に対する貢献の評価制度の不備というものは、やはりあったと考えざるを得ないのであって、この訴訟と判決はやはり日本の企業の特許の扱いや企業内の研究者の待遇等について一石を投じる騒動であることは間違いなく、これがきっかけとなって日本の今後の産業界の発展のためによい方向に向かってくれればよいのでは、と思う人は多いであろう。

企業の立場であれ社員の立場であれ、結論の落とし所は結局ここに落ち着くのである。

● 変わった視点

この件に関しては企業側と研究者側、そして外野と3者の視点からの意見が出ているのだが、前述のようにそのほとんどの落としどころは「技術立国となるために技術者の評価制度を確立すべきだ」という点を中心としている。

だが、国沢氏はこの3者とはまったく別の視点で感想を述べた。その発想のユニークさは、これまで国沢氏の日記等を見慣れてきた者にとってもあっけに取られるものであった。
2004年2月1日 

会社は
青色発光ダイオードの開発者に(筆者注:桃色部分は後日追加された)200億円を払え、という判決が出た。しかし! 本当にトクするの、誰か? 私は税金を得るトコロじゃなかろうか、と考えます。
もし我が国で200億円を個人の所得にするなら、70%近く税金で持っていかれてしまう。国
(中村氏の場合、どこの国に税金を払うのだろうか?)(筆者注:桃色括弧内は後日追加された)にとってみると、企業の利益にしておくより個人の所得とし直接税金取った方がメリット大きいワケ。
報道によれば中村さん側は次の裁判でもっと高い金額を要求するようだけれど、国にとってみると願ったり。もっと税金取れます。
当然ながら損をするのは会社側。
発明をキチンと評価し、しかるべきポジション&報酬を与えるなどしなかったのだろうか。仮に年収を1千万円上乗せして役員のようなポジションとしたなら、こんな事態にならなかった
この給与を30年続けたって3億円。しかも有能な人なので、もっと大きな利益を会社にもたらす可能性だってあったことだろう。いずれにしろ大きな利益を上げられる仕事をすれば発明者の業績が評価される、という点で大いに画期的だったと思う。中村さんは税金を払うくらいならNPOでも作って寄付しちゃい、ノーベルさんのような『賞』を作ればいい。200億円を年1%の金利で運用しても年間2億円。正統な評価をされていない技術者のための立派な賞が創設できます。

(kunisawa.netより引用)
下衆の勘ぐりで申し訳ないが、このような意見は、「自分が200億円もらえるようだったらどうなるのかなあ」という発想が真っ先に浮かんだら発言しやすいのではあるまいか。200億円もの収入があった場合、その大半が税金となるということさえ知っていれば「結局自分のところには200億も残らないじゃないか、得するのは国だ、ははあ、この判決はそういうことか」と連想したら・・・。

そして最後にとってつけたように「画期的判決だ」と報道の上っ面を書いて、蛇足で税金逃れの方法を書くと感想文の一丁あがりである。

筆者を含めた一般人にとって、200億など現実離れしすぎており、それゆえに最初に「なんでこうなったんだろう」と冷静な思考に突入し、その後で「それにしても200億かあ、すげえ税金だよな(笑)」と、どうでもいいような話題としてネタにするものであろう。
しかし国沢氏の場合、そのような文章構成とはまったくの逆で、200億にだけ注目しているかのようである。そのため、「何を書いてるんだこの人は」と読み手はあっけにとられ、「本当に金のことしか頭にないんだなあ」と疑われかねない。

というわけで、書くとすればこのような構成にすべきであったのではあるまいか。
2004年2月1日 

青色発光ダイオードの訴訟で、会社は開発者に200億円を払え、という判決が出た。しかし不思議なのは、なぜここまでの騒ぎになってしまったのかということ。発明をキチンと評価し、しかるべきポジション&報酬を与えるなどしなかったのだろうか。仮に年収を1千万円上乗せして役員のようなポジションとしたなら、こんな事態にならなかったのではないだろうか?。
いずれにしろ大きな利益を上げられる仕事をすれば発明者の業績が評価される、という点で大いに画期的だったと思う。
それにしても200億とはすごい金額だ。もしワタシならその大半を税金でもっていかれるのがモッタイナイので大半を環境保護団体や福祉団体などに寄付しちゃうか、技術者のための支援団体を作っちゃいたいです。その方が自分の稼いだカネをワケワカラン道路などに使われるよりも、使い道が分かり自分ナリに納得できるだけになんぼかマシです。ま、ショセン取らぬタヌキのなんとやらですけど。

当然のことだが、国沢氏が実際に金カネかね\$・・・と日夜思っているかどうかなどは筆者の知るところではない。


補足:

上の引用にもあるように、最初、国沢氏は「会社は200億円払えという判決が下った」とだけで、一体何の件の話題か分からないような文章を書いていたし、「得をするのは国である」と、中村氏が日本国にいるままであるかのような書き方をしていたが、2ちゃんねるや彼の掲示板にて「中村氏の税金はアメリカがもっていきますよ」などと指摘されて後日修正したものである。
一般人が得られるのと同じ報道を見て最低レベル、その職業柄もっと高度な情報も得られる立場にありながら、一般人以下の知識のような文章を書いてしまうことの恥ずかしさに国沢氏は早く気がつくべきなのではあるまいか・・・。
加えて200億とは日亜化学が所有する特許が切れるまでの同社の利益を試算した結果算出されたものであるため、200億一度に支払われるとは普通は考えまい。
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